西明寺 蓬莱庭園(2)

秋の紅葉、真っ赤に染めるよう多くのカエデを庭の中、庭の周りに大きく育てている。心字池には煩悩の象徴である鯉がたくさん泳いでいる。亀島の亀頭は天に向かって立ち、鶴島の頭部も立っている。築山には波打つように剪定された多くのサツキ、小堀遠州の技法である石とそれを丸く取り囲むサツキによりリンガを表現することを真似、波打つサツキ群の中に多くの石をあちこちに立て男根信仰を強く表現している。庭中心の三尊石は立石と二つの丸い石を組み合わせ男性器を表現している。三尊石手前には横に寝かした石をサツキに包み、石の頭を建屋側に向け注意を引くものがある。夫婦のように一対に並んだ石もある。二股に分かれた女性を連想させるカエデや、二股に分かれた幹の間から細い幹が天に向けて伸びる大木が目を引く。あちこちに窪みがある築山の地表面をコケで覆い、柔らかい女性肌と見せている。全体的に艶めかしい。艶めかしく美しい幻想の世界に迷い込んだような気にさせられる。妄想を抱かすような混沌とした世界、天地創造直前のような生命力に溢れた、万物の生育が開始する直前のような世界が広がっている。カエデや大木に囲まれた池は陰の世界の底にある。そこに注がれた太陽光は、もうろうとした池底に届き、濁って反射した光が、鯉が作る水流でゆらゆらと輝いている。波立たない静かな水面だが、光を乱す水流の動きがある。心を落ち着けても、心の中まで落ち着けない人の心をうまく表現している。大木に囲まれた静かな庭は心の中にいるような気にさせられる。庭底にある心字池の水面は略鏡面で、静かに落ち着いた心の中にいるのに、池の中に煩悩の象徴の鯉が泳いでいるがため水流が発生、心が乱されることを見せられる。心は自らの意思とは異なるものにより乱されていることを感じる。目前の幻想のような、妄想を誘うような庭風景は、心の中で見る夢はこのようなものではないかと感じてしまう。心の中にいるような気にさせられる大木で包まれた苔庭にいると、心の中には外の変化が届きにくいことも感じられる。心の中は常に外の変化が届きにくい昏迷状態にあり、容易に妄想を作り出す条件下にある。更に心は勝手に熟成し続けている。人は心を静めることができる、落ち着いた安定生活を望むが、安定生活を手に入れるために、心の中に渦巻く欲望、妄想、昏迷を拠り所とし活動するところがある。心の中に渦巻く欲望、妄想、昏迷を自我だと錯覚し、それらを否定する者を敵だと錯覚し社会トラブルを起こす。心が発する情を愛だと捉えて暴走する。自らの心と向き合わなければ現状維持に陥り、勝手に心が熟成した欲望、妄想、昏迷を満足させることのみに生きてしまう。この庭は人の心の本質を見せている。庭を直視すれば、心の本質が見えて来る。心は体内にある半閉鎖空間であり、熟成空間である。心は生命力に溢れ、生命をつなぐ源となっている。その本質により、欲望、妄想が発生しやすく、昏迷に陥りやすい。夏目漱石の小説の基本思想は「心が発する愛に従い過ぎると他人に迷惑をかけ、自らは罪悪感に苦しむ」ということだと思うが、罪悪感に苦しめられないようにするためには、心に振り回されないよう、常に自らの心をコントロールすることに心掛ける。自らの心と向き合って生きるべきということなのだろう。佛教が一番に目指していることは自らの心のコントロールだと思った。庭通路に沿って築山を登り、庭全体を見渡すことができる地点に到達すると、外の風景が広がっている。自らの心の外には宇宙につながる広い世界がある。宇宙と一体になることで心が発する間違った自我を払拭することができることを見せている。