滋賀院門跡

小堀遠州作 琵琶湖東岸から比叡山風景を画いた庭

滋賀院は1615年(元和元年)天海大僧正(1536年~1643年)が設立、その名は1655年(明暦元年)後水尾法皇(1596年~1680年)が下賜した。滋賀院は天海大僧正の廟、慈眼堂から東に少し下った所にある。この歴史と位置から作庭に手抜きがないことが判る。滋賀院の仏殿・宸殿・書院・庫裏・勅使門は東に岡崎城を遥拝し、

西に比叡山の法然堂、聖尊院堂(亀堂)を遥拝し、南に藤原京跡、元明天皇奈保山東陵を遥拝し、北に西教寺を遥拝している。岡崎城と比叡山の法然堂とを結んだ線上に滋賀院の庫裏がある。藤原京跡と西教寺総門前を結んだ線上に滋賀院の庭と書院、元明天皇奈保山東陵がある。滋賀院門前に長方形の池があるが、池及びその周囲の道や築地塀は南に神巧皇后陵を遥拝する方角に地割されている。勅使門両側は薄い黄色壁に5本の定規筋が入った築地塀となっていた。勅使門のすぐ両側は御所と同じように、壁の一定間隔に縦方向に木がはめ込まれていたが、少し離れたところの壁は、縦方向の木と木の間隔を長くしていた。徳川家光(1604年~1651年)の命でつくられた滋賀院宸殿の西側に、小堀遠州(1579年~1647年)作の庭がある。岡崎城を背後に、琵琶湖の東岸から比叡山を見た風景を庭に画いていた。庭は写真撮影禁止だったので滋賀院周囲で撮影した写真を掲載した。庭は細長く、庭中央に細長い池があり、宸殿内や廊下から庭を鑑賞するようになっている。廊下のすぐ傍が池で、池の左側に宸殿側から池に突き出す礼拝石があり、その先の築山上に小さな石、その上に黄色い石、更にその上に先が尖った石が置かれている。久能山東照宮と比叡山根本中堂とを線で結ぶとその線は滋賀院・南善坊、五大堂・比叡山文殊楼を貫いたので、礼拝石対岸の小さな石は琵琶湖の8割を見わたすことができる南善坊と五大堂(海抜約240m)を、その背後の黄色い石は延暦寺根本中堂(海抜約665m)を、黄色い石の背後にある先が尖った石は比叡山(海抜838m)を表現したものだと推測した。琵琶湖には竹生島、沖島、多景島がある。池の中で一番大きな亀島が沖島、そそり立った石が竹生島、石橋の北側のズングリした石が多景島だと推測した。比叡山を模した石と多景島を模した石の位置が実際の風景位置とは異なっているが、それは庭のデザインを考慮したものと解釈した。南善坊、五大堂と目した石の左で池の傍にある石は慈眼堂、更にその左側の大きな石は日吉東照宮と推測した。池の中央に石橋が架かっている。この石橋に沿って引いた線を西北方向に伸ばすと貴船神社奥宮に到着した。石橋と貴船神社奥宮とを結んだ線は日吉大社摂社白山姫神社拝殿、日吉大社金大巌(八王子山の盤座)・八王子山山頂を通り、日吉大社奥総社近くを通り、明智光秀が攻め落とし再築城した静原城跡を通り、鞍馬山(海抜584m)の山頂近くを通る。庭の瀧水は鶴の首に見立てたとの説がある。石橋が鶴の首に見立てた瀧水にピッタリと向っていることから、瀧水は貴船神社の清水を見立てたもの、瀧左側の石組みの石々は遥拝線に沿った地を見立てたものだろう。石橋を渡ったすぐの鶴の羽に見立てた石は日吉大社西本宮、その背後の石は八王子山にある盤座を見立てた石、更に背後の石は静原城跡を見立てたもの。その上の(石組み頂点の)石は鞍馬山を見立てたもの、これら石組みの左の青色の石は鞍馬寺を見立てたものと推測した。遥拝先である貴船神社は古代以来、天皇が京都の水源を治め、日本を統治して来た象徴である。鞍馬山は源義経が修行した山岳修験の場でもあり源氏崇拝になくてはならない山である。静原城は明智光秀が攻め落とした後、築城した京都防衛に必要な城の一つである。日吉神社、及び八王子山にある盤座は古代以来の信仰の場である。石橋が指し示す多数の遥拝先は、江戸幕府が日本統治するに必要な聖地ばかりである。瀧の右側の鶴の羽に見立てた石は日吉大社東本宮、更に庭の右奥に穴太(あのう)衆積みという自然石の石垣が積まれているがこれは西教寺を表現したものだと推測したが、坂本城を表現したとも読める。仏殿の屋根を借景としていて、庭の左上に有る仏殿から、なだらかに下って来ている面を築山として見せ、そこに苔を生長させ、多数の石を配し、丸刈りしたサツキを並べている。仏殿背後には慈眼堂、日吉東照宮があること。上述したようにそれぞれを表現したと思える石が置かれている。なだらかな下り面となっていることで聖なる気がこの方向から庭に流れ込んでくるように感じられる。この庭は苔面、芝面が少なく、ウエーブをつけた大刈込が無く、小堀遠州特有の遥拝、礼拝から美の世界に入り綺麗を楽しむものでない。自然石を積み上げた石垣があるせいか、小さな石が特に多いように感じる。そのせいか小堀遠州の庭特有の陶酔させる艶っぽさもない。ふと思ったが千利休の庭は小さい石を多用し学問的な所がある。小さな石を積み上げること。小さな石を大切にする所。それらが千利休の庭に似通っていると思った。大徳寺の黄梅院は近代庭園に作り替えられたが、残された千利休作の瓢箪池は小さい石で組んだものだった。聚光院の庭にポツポツと並べられた石は小さな石ばかりで庭の主人公となる石はなかった。石々を平等扱いしていた。千利休の露地で白砂は雪隠としてのみ使っている。この庭に白砂はない。それらのことから、この庭は小堀遠州だけが作ったのではなく千利休と似通ったところがある天海大僧正が深く関与したものだと思った。当庭園は実に多くの遥拝先を持っている。日吉大社の磐座も遥拝している。庭の石々に遥拝先の神がそれぞれ宿るような設計をしている。庭石は総じて明るい色で、庭石が指し示す遥拝先の神々に意識を集中させるようになっている。瀧から流れ落ちた水は池に注ぎ込まれているが、池に水がそそがれる池周辺には細長い葉を持つ植物を植え、水が流れ池に注がれているイメージを増幅させている。瀧周辺以外の池のほとりにはサツキの丸刈りを多用している。庭に比して大きな石橋と、鶴が羽を広げたような瀧の両側の大きな石、比叡山根本中堂を遥拝するための池に飛び出した大きな礼拝石にて、庭を力強いものにしている。庭内に比較的小さな石を多用していることで大きな石々はより大きく感じる構図となっている。この構図は小堀遠州特有のものだ。庭石を明るい石としたのも月光で宸殿の間を明るくする効果を考えてのことだろう。瀧の左側の石灯籠の光が上段の間に向くようになっている。夜、この石灯籠は上段の間の障子に光を当て、上段の間を明るくする。しかし石灯籠の置き方が不自然なので作庭時にこれはなかったものだろう。瀧の右側の灯籠の光は、宸殿の端の方を向いている。宸殿の上段の間に向かう人に緊張感を与えるためのものだろう。これも築庭時にはなかったものだろう。この庭は遥拝、礼拝のために作庭したものだ。多数の神々がひしめきあっているように感じる。この庭には写真撮影禁止が必要なのかも知れない。滋賀院庭園が遥拝・礼拝に徹していたので、滋賀院付近の慈眼堂、日吉東照宮、比叡山の遥拝先をチェックした。慈眼堂;これほど多くの遥拝先を持つ堂は少ないと思うほどに多くの遥拝先を持っていた。東方向;慈眼堂の東面、及び東に下る最初の階段は久能山東照宮を遥拝している。東に次に下る階段は徳川家康の生誕地、岡崎城を遥拝している。西方向;比叡山の大講堂を遥拝している(比叡山の大講堂と久能山東照宮を結んだ線が慈眼堂を通過する)。南方向;慈眼堂の南面、及び南に下る最初の参道は奈良 玉置神社を遥拝しているが、慈眼堂と玉置神社を結んだ線上に春日山山頂・春日大社の神域である春日原始林・石上神社・西殿塚古墳・崇神天皇陵・景行天皇山邊道上陵・上之宮遺跡、メスリ山古墳、徳利塚古墳があるのでこれらも遥拝している。その線の両側にも多くの古墳、神社(大神神社、談山神社、吉野神宮など)がある。南に次に下る参道は藤原京跡及び元明天皇奈保山東陵を遥拝している。北方向;西教寺を遥拝している(玉置神社と明智光秀一族の墓がある西教寺とを結んだ線が慈眼堂を通過する)。遥拝先を整理すると、東方向;徳川家康の生誕地、終焉地、そして墓所を遥拝している(南禅寺 天授庵 方丈前庭と同じ)。西方向;比叡山延暦寺を遥拝している。南方向;修験霊場の玉置神社、藤原家の心の拠りどころとする神社・古墳、日本武尊の父(景行天皇)、父の祖父(崇神天皇)の御陵を遥拝している。玉置神社伝では崇神天皇によって熊野本宮とともに玉置神社が創建されたと伝えている。春日大社は藤原氏の氏神を祀るために創設された。元明天皇(661年~721年)は藤原京から平城京に遷都した女帝。遷都時の日本の最高権力者は藤原不比等(659年~720年)。藤原氏の家祖である藤原不比等は天智天皇の落胤との説がある。仮に天智天皇の落胤であれば、藤原不比等と元明天皇は兄妹関係となる。藤原不比等の娘、藤原宮子は文武天皇に嫁ぎ、聖武天皇を生んでいる。藤原家の信仰先が二つのライン及びその付近に集中していることから、2つのライン或いはラインの付近に江戸時代において藤原不比等の遺灰を埋めたと目される地があったのかも知れない。北方向;西教寺を遥拝していた。慈眼堂に隣接する恵日院建屋も慈眼堂と全く同じ方向に建てられている。天海大僧正は方角を非常に重視し徳川幕府及び徳川家安泰のために江戸を設計した。その天海大僧正の霊廟は東に源氏(武家)の棟梁である徳川家康を遥拝し、南に藤原家(公家)の心の拠りどころを遥拝し、西に比叡山延暦寺を遥拝し、北に西教寺を遥拝している。慈眼堂は武家と公家の神々を結びつける役割を果たしている。北の遥拝先、西教寺は1571年(元亀2年)織田信長の比叡山焼き討ちで消失したが明智光秀が復興した。西教寺は明智光秀・内室、熙子・一族の墓を祠っている。よって北に明智光秀を遥拝していると読める。遥拝先から見るに明智光秀(生年不明瞭~1582年)の持ち上げ方が特別に見える。日吉東照宮;東に岡崎城、西に比叡山講堂、南に藤原京跡、北に日吉大社東本宮本殿、西教寺客殿庭園(小堀遠州作)を遥拝していた。南に藤原一族の栄華のスタートを感じさせる藤原京跡を遥拝している。慈眼堂ほど多くの遥拝先を持っている訳ではないが、基本は慈眼堂と同じく武家と公家を結びつける役割を果たしている。比叡山;根本中堂前の階段は駿府城、久能山東照宮に向いている。根本中堂の秘仏の薬師如来像が駿府城、久能山東照宮に視線を合わさせないためか根本中堂の東側に山があり、根本中堂は久能山東照宮から南に約1度ずらせてある。文殊楼は駿府城と久能山東照宮を遥拝している。文殊楼東側の階段は熱田神宮を遥拝している。文殊楼南側の階段は熊野本宮大社跡(大斎原)に向いているようにも見えるが奈良市ウワナベ古墳(宇和奈辺陵墓参考地)にピッタリと向いている。比叡山延暦寺建屋は徳川家安泰の礼拝方向に建てられている。余談になるが、奈良 東大寺大仏殿は北に比叡山根本中堂を遥拝し、南に遥拝先を持たず、東に浜松城、西に対馬 和多都美神社を遥拝している。東大寺南大門-中門-大仏殿につながる一直線の参道、及び南大門、中門、大仏殿建屋は比叡山根本中堂方向にピッタリと向けられている。東大寺の大仏を礼拝することは比叡山延暦寺根本中堂への礼拝につながっている。浜松城天守閣と和多都美神社とを結んだ線は東大寺中門の少し南側を通過する。比叡山延暦寺に庭と呼べるものは無いが、幹が真っ直ぐ天に向かうスギで囲まれ、その足元、幹と幹との間、或いは展望所からスギの上に借景庭園のように琵琶湖が見える。最後に滋賀院庭園をまとめると、小堀遠州の技法はあるが、それ以上に天海大僧正の意志が貫かれ、遥拝の渦の中にある庭と感じた。庭の範疇を越えた礼拝所なのかも知れない。