田丸城

織田信長の躍進(12)

田丸城(玉丸城)は安土城が築城開始される1年前、1575年(天正3年)当時最先端の石垣の城に改築された。神の通り道を調べると、伊勢神宮外宮と(耳成山頂上)耳成山口神社を結んだ線が二の丸を通過する。伊勢神宮外宮と(対馬)海神神社を結んだ線は二の丸の南を通過する。伊勢神宮外宮と(奈良)大神神社拝殿を結んだ線は城山稲荷神社境内を通過する。伊勢神宮外宮と(堺市)土師ニンザイ古墳を結んだ線は城山稲荷神社境内を通過する。城全体が神島と沼島を結ぶ線下にある。天守は西の大宰府天満宮を遥拝している。安土城が見せることを第一に作られているのに対し、この城は防備だけでなく神の通り道、遥拝を考慮した平和安定期における行政の中核となる威厳ある形になっている。徳川幕府がそのまま使用したことからもそれがうかがえる。1569年(永禄12年)大河内城の戦い後、(北畠具教の嫡男)北畠具房の養嗣子となった(信長次男)織田信雄(1558年~1630年)は(北畠具教の娘)雪姫と大河内城に住んだが、1575年(天正3年)北畠家の家督を相続し、改築された田丸城へ移った。隠居した北畠具教は信長の親族でありながら、信長を倒すことを企み続け、1572年、信長の敵である西上作戦実行中の武田信玄に協力を申し出た。1573年、第二次長島侵攻の際には安宅船を集める信長軍の作業を妨害し水上攻撃できないようにし敗北させた。1575年、信長に反旗を翻らせるため田丸城の築城を始めた。これに対し、信長は北畠具教一族の殺害を計画した。改築城の翌年1576年(天正4年11月25日)信長・信雄(北畠信意)父子は三瀬の変を起こし、三瀬御所に隠棲していた北畠具教と幼い2人の子供、14人の家臣、30人の家人を殺害した。田丸城では織田信雄が北畠具教の次男(長野具藤)、三男(北畠親成)、娘婿(坂内具義)と息子を偽りの宴会に招き殺害した。城内にいた関係者も殺害した。(信雄の養父)北畠具房は捉えられ長島城に幽閉され、4年後に亡くなった。三瀬の変を逃れた北畠家臣たちは北畠政成が守る霧山城(多気御所)に入ったが、信長は即座に1.5万の軍を派遣し12月4日、霧山城を陥落させた。北畠政成と北畠家臣たちは自害した。北畠具教の弟、北畠具親は東大寺の小院院主であったが還俗し、旧臣を集め天正5年と天正12年に蜂起するも2回とも撃退された。尚、城下に住んでいたかつての田丸城主、田丸直昌(北畠氏血流)を殺害しなかったので、北畠具教の家族と関係者を狙った殺害事件だったと読める。三瀬の変を起こした当時、織田信雄は18歳、信長の指図で行動したに過ぎないことが読める。その後、1579年(天正7年9月)信雄(北畠信意)は信長に無断で9.5千の軍を編成し、第一次天正伊賀の乱を起こすが、大敗し信長の大叱責を受けた。1580年(天正8年)田丸城の火災で天守を失い、信雄は松ヶ島城へ移った。移転は虐殺事件を起した城だったからではないだろうか。田丸城で虐殺にかかわった津川義冬の妻は雪姫の姉で、信雄と義兄弟だった。本能寺の変の後、秀吉は信雄の三家老(津川義冬・岡田重孝・浅井長時)が秀吉に寝返ったという流言を流し、流言を信じた信雄は三名を長島城で殺害している。この殺害は家康と秀吉両名に嵌められた面もある。これらから、織田信雄は偉大な父を持つがゆえに、父親の言われるまま行動し、父親に認めてもらおうと相談なしに開戦し大敗、天守焼失で新しい城を作り引っ越し、調略には簡単に嵌められてしまう。晩年は京都に住んでいるので、良家に生まれた普通の人だったと読める。信長は機動力ある戦いをした。今川義元の陣を狙い撃ちした桶狭間の戦い。素早い撤退で大敗を免れた金ヶ崎城の戦い。第一次石山合戦中、浅井・朝倉連合軍が宇佐山城を攻撃し京都を目指していることを聞くや、合戦を止め1日で40㎞の行軍を行い京都に戻り、浅井・朝倉連合軍の京都入りを阻止した志賀の陣。小谷城救援にやってきた朝倉軍2万が撤退すると見るや、信長自ら2千の騎馬隊で追いかけ刀根坂にて捕捉し戦いに入いり、遅れて到着した佐久間軍とで朝倉軍を崩壊させた一乗谷の戦い。天王寺砦が本願寺軍の罠にかかり包囲・猛攻撃を受けた知らせを京都で聞くや、すぐさま百人を率いて河内若江城に入り、(各地の兵を呼ぶも集まらなかったので)2日後、信長はわずか3千を率い先鋒の足軽に混じり1.5万の本願寺軍に突入し砦への道を開き、天王寺砦に入いるや砦の3千と合流し、すぐに打って出て近接戦にし、数千の鉄砲を有効使用できなくして1.5万を崩し、本願寺の城門近くまで追撃し、大勝利を得た天王寺の戦い。このように信長は目覚ましいスマートな戦いをする一方で、清洲城での弟殺害、一向一揆衆の虐殺、三瀬の変における虐殺など汚点とも思える殺害事件を起こしている。これら虐殺事件がついてまわるので、神になれないこと、安土城を聖地にする計画に無理があることを自ら悟ったのではないかとも思った。江戸時代になると田丸城は桶狭間の戦いで今川本軍先頭を待ち伏せ攻撃した織田軍の(熱田大宮司家で大宮司職を継いでいた)千秋季忠を討つも、今川義元を救援するため本陣に駆け戻り討ち取られた久野元宗の直系子孫(紀州藩1万石の旗本)が城代として城と6万石領地を管理した。