雪舟は応仁の乱が起きた1467年(応仁元年)明に渡航、約2年間、水墨画を研究し、天童寺(天童山景徳禅寺)で「四明天童山第一座」の称号を得たので、天童寺を起点にグーグル地図に線を引いて見ると、天童寺と(天橋立)籠神社本殿を結んだ線が雪舟庭を通過した。本堂・山門・参道は西北の中国瀋陽のラマ教寺院、西塔(延寿寺)を遥拝している。この方角には瀋陽故宮、昭陵(ホンタイジの陵墓)、福陵(ヌルハチの陵墓)、(中国遼陽)東京陵があるので、本堂での祈りを清の聖地に送る形になっている。(輪島市)総持寺祖院法堂と山口大神宮境内を結んだ線は本堂を通過するが、本堂はピッタリと総持寺祖院法堂と山口大神宮を遥拝している訳ではない。近代に再建した際、本堂を正四角形に建替えしたからだろうか。これら遥拝先と作庭時期から雪舟庭は遥拝目的で作った庭でないことが読める。庭はどのような経験を積めばこれほど素晴らしい作品が作れるのだろうかと思うほどに美しい。北畠氏館跡庭園・一乗谷の四庭園と同じく太く豪快な石を用い、本堂と池泉の間に大きく観てX線状に石を並べている。本堂の西から一直線上に置かれた石を追いかけて見た庭が一番美しい。行列のように置かれた庭石が指し示す先には多くの石で組まれた渓谷があり、渓谷を形付ける石々は如来・菩薩のようであり、僧侶のようで、佛の世界になっている。雪舟が神の国(日本)から舟に乗り、(おそらく五島列島を模した)亀島の傍を抜け東シナ海に入り、佛の国(中国)へ向かう旅景色が画かれている。石舟が旅情を感じさせる。池泉の対岸左奥の石組が石舟を見守っている。風を感じさせる庭と評せるのではないだろうか。旅人は風のようにどこにでも入っていく。旅人や情報員のような人生を過ごした雪舟なので、自らの姿を風にたとえ、森羅万象を画く庭の中に自らの姿を想像できるようにしたように思う。この庭を前に座る風のような人生を送った人々は庭を観ながら自らの行いとその結果を省みたことだろう。風のような人が天主のような絶対権力者、或いは雷や火のような指揮官に従えば、絶対権力者や指揮官の意図は隅々まで伝わり、絶対権力者や指揮官が意図したことが成し遂げられる。その逆に風のような人が絶対権力者を押さえても、押さえることができるのは一瞬のみ。風のような人が雷や火のような指揮官に的確な意見をすると、指揮官を大いに助け、指揮官は大成果を上げ、組織を整えることができる。水を蓄えた思想家や宗教家に風のように情報を与えると彼らに変化をもたらすことができるが、思想家に押さえ込まれた新聞記者は身動きがとれなくなる。このような思索の世界に引きずり込む庭ではないだろうか。いつまででも本堂から庭を観ていたいと感じるのはそのせいだろう。日本庭園が画くべきものを画いた日本庭園の鏡のような庭だと思った。