南禅寺南禅院

方丈、庫裏は西に天龍寺僧堂(専門道場)を、東に大国主の命を祀る三河一之宮 砥鹿神社 奥宮を、南に日本武尊の陵墓、琴弾原白鳥陵を遥拝し、北には南禅寺法堂が控えている。方丈、庫裏が東西に遥拝する天龍寺僧堂と砥鹿神社奥宮を結ぶ神佛の通り道は鹿王院客殿-車折神社鎮守の森-広隆寺霊宝殿-木島坐天照御魂神社鎮守の森-二条城-南禅寺金地院・真乗院・天授庵・鐘楼-南禅院方丈と庫裏-南禅寺高徳庵を通過する。この神佛の通り道両側には多くの寺社があり、比較的太い神佛の通り道が形成されているので、方丈、庫裏は神佛の通り道に包まれている。大比叡山頂と石清水八幡宮本殿を結ぶ神の通り道は南禅院庫裏を通過する。吉田神社大元宮と醍醐山頂上を結ぶ神の通り道は宗忠神社-金戒光明寺 大方丈-岡﨑神社―南禅院庫裏を通過するので、何禅院は神佛の通り道の交差点であり、境内には亀山天皇分骨所があり、方丈前庭の借景山には後嵯峨天皇皇后姞子粟田山陵があるので、多くの神々や霊を呼び寄せていると読んだ。上記遥拝先を持つ方丈の中央から見て東南に亀山天皇分骨所があり、南に山と方丈に囲まれた閉鎖的な庭があり、西に緩やかな渓流と緩やかな風を見せる庭があり、北に法堂が有るので、庭には多くの神佛や霊が宿り、風が通る方丈での祈りは、庭に宿る霊たちを慰め、その心を養っていると感じる。日本人のアイデンティティはこのような寺院の祈りにて守られていると思った。南禅寺何禅院のHP説明によると「方丈から南に向かって左の奥に滝口の石組みが組まれ、上池は曹源池と呼ばれ竜の形に作られ中央に蓬莱島があり、下池には心字島が設けられています。」と説明されている。南側の曹源池がある庭は三方が山と大木に囲まれ、方丈は山と大木に迫っているのでうっそうとしている。曹源池が滝からの流入水で波立たないよう、滝水をいくつかの石にぶつけ、直線状に落下させ、次に湾曲部を通し曹源池に流れ込ませている。流入水は曹源池の東端と蓬莱島を結ぶ細長い石にて直接、方丈側に流れ込まないようにし、他の三つの蓬莱神仙島の南側、開口部が広くなる方向に流し、波を消し、方丈側を鏡水面池としている。大木に育った樹木の開口部から太陽光が降り注いでいる。天から降り注いだ光が曹源池の水面を貫き池の底を見せている。水面に樹木の緑も映っているが、池の底が明瞭に見える。降り注ぐ光は苔面も綺麗に浮かび上がらせる。池の周りに植えられた多くのアセビと鏡面池は深山を表現し、方丈と山に響く滝音が心を洗ってくれる。曹源の一滴水から名をとった曹源池、天龍寺曹源池と同じ名が付けられている。方丈中心から見て東大寺大仏殿の方角にある一条の曹源瀧から流れ落ちた水が曹源池に蓄えられた後、下池と称される心字池へと流れている。方丈西側、浅瀬に水を流す下池は宗鏡寺で見た茶室付近の庭に似ており、浅瀬ゆえに煩悩の象徴である魚の生息を許さず、悟りの境地を表現している。夢窓疎石(1275年~1351年)が作った悟りの境地を表現する曹源池、心字池の庭は、応仁の乱で1467年に南禅寺全域が焼かれ、ずいぶん荒廃したことだろう。南禅寺の復興は1605年(慶長10年)以降なので、南禅寺大方丈庭園、金地院庭園、天授庵庭園を作庭した小堀遠州が、遥拝線や神佛の通り道を考慮しながら、こちら南禅院の庭の石組みを全面修正し、サツキの丸刈りを配したと推測した。捉えどころのない、掴みどころのない無の境地を表現した庭であり、山からの風が沢の上を爽やかに流れ続けている庭なので、嘘偽りの無い心で一心に祈ることがふさわしい。