岡崎城

徳川家康ゆかりの寺社(7)

見せる城ではなく、歴戦の各武将が山城攻略で苦しんだ経験を盛り込み、戦いに備えるため、あちこちに仕掛けを設け、改築を重ねた印象を受けた。家康が居城にした岡崎城、浜松城、駿府城、江戸城、二条城いずれも戦場にならなかった幸運城ばかりだが、岡崎城、浜松城、駿府城は明治政府により廃城にされ、岡崎城は本丸と周辺の持仏堂曲輪、隠居曲輪、風呂谷等の曲輪、それらの石垣、堀などのみ残された。近代に復興された鉄筋コンクリート製の天守は北に(飛騨市)気多若宮神社を、南に(渥美半島)白山比咩神社を遥拝、両本殿を結ぶ神の通り道は天守の約50m東、本丸御門跡付近を通過する。東にはブッダガヤの大菩薩寺を、西には城のすぐ傍の菅生神社・秋葉神社を遥拝している。天守とブッダガヤの大菩薩寺を結ぶ遥拝線は途中、(京都市右京区)首塚大明神-(兵庫県穴栗市)石作神社-(兵庫県佐用郡)下徳久三社八幡神社を通過、この遥拝線両側には小さな寺社が多数ある。天守は家康と関係ある遥拝先ではなく、多くの将兵が死傷する戦場を連想させるブッダガヤの大菩薩寺を選んでいる。徳川家康を偲ぶことができる遥拝線を探るためグーグル地図上で多くの線を引いてみた。比叡山延暦寺東塔と(磐田市)奥磐戸神社(小國神社奥宮)を結ぶ神佛の通り道が岡崎城持仏堂曲輪-長篠の戦い跡にある山住神社を通過した。(京都)萬福寺の法堂と西方丈は駿府城を遥拝しているが、法堂と駿府城天守台跡を結んだ遥拝線が(大津市)立木山安養寺境内-岡崎城南側の堀を通過したくらいで、神の通り道、遥拝線が少ない城だ。久能山東照宮と伏見桃山城跡(明治天皇陵)を結ぶ神の通り道が岡崎公園大手門の北60mを通っているので、天守を約3度反時計方向に向ければ久能山東照宮と、伏見桃山城跡を遥拝でき岡崎城を聖地とできたのにそのようにはせず、あくまでブッダガヤの大菩薩寺に向け戦う城としている。そのことから城内に家康産湯の井戸があるも、城内で家康が生まれた伝承は作り話だと感じた。或いは二代目の家康にとって岡崎城は自らが居城にしたわけではないので聖地にする意図がなかったのだろうか。遥拝先を見る限り、あくまで家康の天下統一事業の通過城で戦略重視城だ。家康が居城にした約7年間は三河一向一揆、三河国統一、遠江国侵攻があり、ひたすら倹約し軍資金を捻出したためか、城には手を加えなかったようだ。その後、多くの武将の手で城整備されたこともあり、家康が作ったものは目につかなかった。次は三方ヶ原の戦いに書き進めようと思っていたが、甲斐武田について調べた上でなければ書けないことだし、三方ヶ原の戦い自体、父親が息子を鍛えるために行ったような戦いなので、家康の実の父親は武田信玄である可能性が高い。しかし謎多い家康の真の父親について今のところ何の根拠も見いだせないでいる。しばらくはこの徳川家康ゆかりの寺社シリーズを休み、あちこちの寺社、城、戦跡を拝観し、暖めた上で、1年ほど先から、続きを書くことにした。