大樹寺(岡崎)

徳川家康ゆかりの寺社(6)

1560年6月(永禄3年5月)桶狭間の戦い後、松平元康(以下、徳川家康)は水野信元の手引きで当寺に逃げ込み自害を訴えたが、住職の「厭離穢土欣求浄土(おんりえどごんぐじょうど)」の説法で思いとどまり岡崎城に入った。往々に美談は不都合を隠すための作り話なので、自らを育成してくれた今川義元を見捨てたことを隠し岡崎城に入いるための方便だった思う。それから約3年後の三河一向一揆を乗り越え家康は強い三河武士団を作り上げた。何故、多くの武将を悩ませ続けた一向一揆をわずか半年で解散させ強い三河武士団が作れたのか探るため、ウイキペデアで松平氏を追いかけた。松平氏の始祖は(河内源氏)新田源氏の末裔とも称される松平親氏だが、粉飾系図が通説となっている。松平家について確たる記録は岩津松平家を継いだ第3代の信光からで、(信光三男)親忠(安祥松平家初代、家康の6世祖父)は1470年(文明2年)伊賀八幡宮を始め、1475年(文明7年)自らの居館付近に本寺を建立したと伝わる。(親忠兄)守家は竹谷松平家の祖となった。(親忠弟)与副は形原松平家の祖となった。(親忠弟)光重は大草松平家(岡崎松平家)の祖となった。(親忠弟)忠景は五井松平家の祖となった。息子の(親忠長男)親長は当寺の北北東2.4㎞岩津城主となるが、今川軍に攻められ岩津松平家は没落滅亡、領地は安祥松平家のものになった。(親忠次男)乗元は大給松平家の祖となり、第4代、松平親乗(1515~1577年)が1556年頃、臨済寺で学んでいた徳川家康に随身、子孫は代々、徳川宗家に仕えた。(親忠3男)長親が宗家の家督を継ぎ安祥城主、安祥松平家二代となり(長親長男)信忠-清康-広忠-徳川家康とつながる。(親忠息子、長親弟)張忠の系列は歴史記述ない。(親忠息子、長親弟)存牛(1469年~1550年)は知恩院25世に就任した。家康が熱心な浄土宗信者だったのは松平氏から浄土門主を輩出したことにあるのだろう。(長親次男)親盛は福釜松平家の祖となった。(長親3男)信定は桜井松平家の祖となった。(長親4男)義春は、東条松平家の祖となった。(長親5男)利長は藤井松平家の祖となった。(信忠の子、清康弟)信孝は三木松平家の祖とされている。上記以外の庶流に深溝松平家、能見松平家、長沢松平家、滝脇松平家、桜井松平家、藤井松平家がある。以上の通り松平氏は多くの分家を輩出した。これほど多くの血縁者が三河一向一揆で敵味方に分かれ戦えるはずがない。逆説的に言えば家康はうまく松平一族を使い一向宗を封じ込め、天下統一事業に邁進できるようにしたと読める。1531年(享禄4年)家康の祖父、清康が岡崎松平家を破り、拠点を安祥城から旧岡崎城に移した。1530年~1531年頃、清康は拠点を現在の岡崎城に移した。(清康の子)広忠の子(家康の異母兄)忠政の経歴は家康の兄としての経歴ではなく、ほんとうに兄なのかと疑われるものとなっている。(家康の異母兄弟で同年同日生)恵最は(岡崎)広忠寺の住職となり、そこに家康が訪ねたと伝わっている。さて徳川家康が今川氏の人質となった時、松平宗家(安祥松平家)は略全滅していた。松平の各分家は今川氏の支配下に組み込まれていた。桶狭間の戦いで、今川義元が去り、家康が松平宗家(安祥松平家)当主となれば、たちどころに松平軍団が出来上がる準備がなされていた。そのような準備が成されていたことを織田信長、水野信元、徳川家康の家臣が知らなかったはずがない。桶狭間の戦いで信長が大勝利し、家康が岡崎に入ることは計画に沿って行われたまでのこと。このような計画を作り、指示を出したのは河内源氏の中枢にあった秘密結社だったと推理する。その秘密結社は安祥松平家を背乗りすべく、長い時間をかけ安祥松平家を骨抜きし、松平分家を今川氏の完全支配下へと導き、時間をかけ家康を育て上げ、英才教育を終えた家康を岡崎城に入れ、安祥松平家の当主とすることで背乗りに成功したと推測した。明智光秀の出現、ヌルハチの出現以上に固い地盤を持つ安祥松平家に家康を出現させたことで秘密結社が画策してきた天下統一事業を軌道に乗せることができた。桶狭間の戦いの陰で天下統一事業の大樹が育ち始めたと読んだ。先に記事にした清見寺、臨済寺の記事どおり、家康は河内源氏の棟梁となるべく英才教育を受けた。文献が無いので確定できないが今川氏の子弟に対する教育とは比べられないほどの英才教育だったはずだ。以上のことから家康・恵最の父は松平広忠ではなく、河内源氏血筋の実力者の子だったはずだ。家康は幼児期に河内源氏の血筋の子と差し替えることができる人身売買がされた身でもある。当地は河内源氏と縁深い。征夷大将軍となった源頼朝は熱田で生まれた。足利宗家3代当主、足利義氏は三河国守護職となり、(義氏嫡男)泰氏が4代当主を継ぎ、その曽孫、足利尊氏が征夷大将軍となった。(義氏長子)長氏は三河吉良氏の祖となり、西三河の南を統治。この系列から今川氏が出た。河内源氏系列者の武将(榊原康政、丹羽氏次)もおり、多くの河内源氏の部下が統治していた地でもある。血縁関係の深さによるものか三河人は真面目で堅実、団結力が強い。秘密結社はこれらに目を付け岡崎を日本統一事業の開始地点と定め、家康を松平宗家(安祥松平家)に送り込み、背乗りし、十八松平、徳川十六神将らを幹とする三河武士団を組織し日本統一事業を開始した。それが真相ではないだろうか。上述以外の根拠として十八松平で徳川宗家直属の部下となった者はごく僅かしかおらず、十八松平は誰一人として徳川姓を名乗ることが許されなかった。誰一人として徳川家に養子に入れなかった。これらから徳川家康と松平家とは血縁関係にないと推測できる。当寺名「大樹」が松平氏から将軍が誕生することを祈願し命名されたと伝わる逸話も出来すぎている。当寺の伽藍は北アルプスの薬師岳と岡崎城天守を遥拝している。薬師岳頂上と天守を結ぶ遥拝線は方丈の東隣の建屋と宝物殿を通過する。西には(滋賀)日牟禮八幡宮を東に長篠城を遥拝している。もしやと思ったのが長篠城を遥拝していること。伊賀八幡宮(岡崎)の記事で述べたが1代目の家康が長篠の戦いにおいて戦死したことを悼み遥拝しているのではないかと疑った。1535年、松平清康が建てた多宝塔のみが伽藍とは違う向きをしており、西北に多賀大社を東南に(岡崎市)夏山八幡宮の鎮守の森を遥拝している。この神の通り道両側には小さな神社が点在する。東北には有明山(信濃富士)頂上を遥拝している。仮説だが、もとの伽藍は多宝塔と同じ方角を遥拝していたが、江戸時代に入り伽藍の向きを変更したのではないのだろうか。本堂裏庭(大方丈のまわり)には家康手植えのシイを含む多くの大樹が育ち、亀島石組みがあり、大きな石が置かれ、背の高い石灯籠が置かれ、飛び石がある。地面は一面の苔面。飛び石は比較的大きい。比較的狭い敷地に大きなものを置き、大樹を育てることで豪快な庭にし、空をあまり見せず、地表の苔面に風が通る様子を見せる庭となっている。大方丈東北の庭は建屋と白壁塀で囲まれた比較的狭い中庭風で、狭い空間に石灯籠を1本立て、ツツジ、サツキ、クチナシ、ナンテン、シュロチクなどを植えている。飛び石を地面に埋め込むのではなく、地表に置いている。そのため飛び石を歩けば不安定な所を歩いているような、とらえどころのない雲の上を歩いているように感じる。白壁塀の外は大樹と竹林、囲み包まれた中庭のような狭い空間に樹木を低木に育て、比較的大きな石灯籠、飛び石を配しているので豪快だ。先の庭と同じく苔面が印象的だ。両方の庭とも大樹を見せ「寄らば大樹の陰」徳川家に従うことが安心だということを見せている。庭の石々を地表に置いただけのように見せ、大樹の陰に包み込むことで「20風地観(ふうちかん)観察、省察の道」を表現したと読んだ。庭の石々を松平家の人々、大樹を徳川家と見せ、松平家の人々に心で徳川家の意向を観て取るように諭したと読んだ。松平親忠が当寺を菩提寺としたことに因み、松平八代墓所が設けられている。その左端に昭和44年4月に建立された家康の墓がある。もともと家康を始めとする将軍墓は一つも無かった。墓の代わり当寺には徳川各将軍の身長と同じ高さの位牌が安置されている。墓と位牌にて松平家と徳川家を区別していた。庭、墓所、位牌安置所、伽藍の拝観を通し、十八松平(松平氏一族)は徳川家の庇護の下、徳川家へ忠義を尽したと感じた。