高遠城

織田信長の躍進(13)

1582年(天正10年2月)嫡男、織田信忠は織田軍5万の総大将として武田領に侵攻、天正10年3月2日、高遠城を攻め、搦手口では陣頭に立ち柵を破り塀に登り指揮する勇猛ぶりを発揮した。高遠城を守るは信忠と同い年の仁科盛信(武田信玄5男、1557年~1582年)率いる3千で、武田氏滅亡にふさわしい戦いをして自刃した。高遠城は城内に池があるほど水には困らないが、それほど広くない、背後が峡谷の逃げ場がない山城なので、3千人も籠れば兵糧がすぐに尽きてしまう。3月1日、仁科盛信が信忠の使者(僧侶)の鼻と耳とを削ぎ取り追い帰し、戦いで決着をつけよと挑発したのも、兵糧が少なかったこと、武田氏滅亡の道がすでにつけられていたので、生き残る武田氏の子孫と家臣たちのために、後世に自らの奮闘ぶりを語り継がせるため激戦に持ち込み、見せ場を作ることを第一に考えていたのだろう。信忠は一刻も早く高遠城を落とし、家康よりも先に甲府に入る必要があったので、わずか1日で落城させた。二人は対面していないが心を通い合わせ戦ったことが読める。甲州征伐において、次々と調略が成功した信忠軍の進撃は早かった。武田勝頼は体勢を立て直すことが出来ず新府城を焼き捨て逃亡、天目山の戦いで勝頼・信勝父子が自害、武田氏を滅亡させた。3月21日、信長は全く戦うことなく諏訪に入った。信長は信忠の戦功を賞したが領地を分け与えなかった。武田氏を滅亡させた信長は歴史的任務を終え、家康の手厚い接待を受けながら、まるで引退旅行のような旅をしながら安土へと戻った。甲州征伐を成功させた信忠は信長から良き人材育成教育を受けていた。1573年(天正元年8月)小谷城の戦いが初陣、信長に従って観戦。1574年(天正2年2月)信長に従い岩村城の戦いに参戦、天正2年7月~9月、第三次長島侵攻で信長は信忠軍を編成。この年に東美濃、尾張の一部の兵が与えられ、軍団指揮者教育が始まる。上述の甲州征伐はこの編成で行われた。1575年(天正3年5月)長篠の戦いに参戦、戦い直後に岩村城攻めの総大将として出陣、夜襲をかけてきた武田軍を撃退し1,100人を討ち取る戦果を上げ、11月に開城させる。1576年(天正4年11月)信長から織田家の家督と美濃東部と尾張国の一部が譲られ、岐阜城主(領主)となり、(斎藤道三の末子で、本能寺の変では二条御所で戦死した)斎藤利治が重臣となり、統治者教育が始まる。1577年(天正5年)雑賀攻めでは明智光秀、細川藤孝と共に戦う。同年10月、信貴山城の戦いで総大将となり、明智光秀を先陣、羽柴秀吉ら4万を指揮し信貴山城を落とした。この戦いから信長に代わり総帥として諸将の指揮を執るようになる。信長は政治、信忠は軍事、強かったドイツ帝国のビスマルクとモルトケのような両輪体制となった。1578年(天正6年5月)上月城の戦いで苦戦中の羽柴秀吉を援護するため信長は信秀を総大将とし明智光秀、丹羽長秀、滝川一益、細川藤孝ら2万を率いさせ出陣させた。援護軍は二手に分かれ上月城攻撃の明智光秀軍と、三木城付近攻撃の信忠軍と分かれた。羽柴秀吉は信忠の指揮に入った。結局、二方面で戦っていた合計7.2万人の織田軍は上月城を見捨て、三木城と付近の城攻略に専念した。1578年(天正6年10月)月岡野の戦いで大戦果を上げていた斎藤利治が更なる戦果を上げるよう援軍総大将に任命され出陣するも雪のため撤収した。1579年(天正9年)荒木村重の謀反の鎮圧に出陣、3千で加茂砦に陣を張っていたところ、荒木村重が信忠を狙い5百で夜襲、火攻めをかけてきた。砦が燃やされ馬や兵糧を奪われたが信忠は無事だった。1580年(天正8年)佐久間信盛と安藤守就の追放により、両名が美濃、尾張で支配していた地域が信忠に移譲され領域が広がった。以上から信忠は大軍を統括指揮でき、領主として行政を行える人物であったことが読み取れる。同年代において、これほどの教育(徳川家康が受けた以上の教育)を受け、それに答える働きができた人物はごく僅か、或いは信忠だけではないかと思う。本能寺の変において父の面影を追い二条城(二条御所)で戦死を選ぶようなスケールの小さい人物であったはずがない。部下である明智光秀の考え、行動をつぶさに感じ取っていたはずで、大軍で攻められるまで謀反を感じないなどありえない。京都の西の山から松明(たいまつ)を持ち京都市内に向かう行軍は、京都市内から良く見える。劇場に入るような明智光秀軍の行軍を、本能寺の変が始まる数時間前から多くの人々が驚きを持って見つめていたはずで、もし京都市内におれば、この騒ぎに気付かぬはずがない。これらのことから私は本能寺の変が起きた前夜に、信長、長利(信長弟)、信忠、勝長(信忠弟)、森成利(蘭丸)、森坊丸、森力丸、坂井越中守たちは京の都を脱出しており、本能寺の変が起きた時点で、逃亡を終えたか終える直前、すでに捜索が難しい地点を移動していたと推測した。本能寺・二条御所で討ち死にした忠臣たちは、信長、信忠らがいるように見せかけ明智光秀と戦い忠義を果たしたのだと思う。当時は心酔する上司から戦死するまで戦えと命じられたら戦う時代で、殉死があたりまえの時代である。