法華寺(諏訪)

天正10年6月2日(1582年6月21日)本能寺の変の約2カ月前、3月19日から4月2日まで織田信長が法華寺で陣を張り、甲州征伐にて武功を挙げた武将達に論功行賞を行い、領地を分け与え、甲斐・信濃の国掟を発した。しかし最大の貢献者、織田軍の総大将、信忠には領地を全く分け与えない不自然なものだった。信忠の配下で参戦した信長の弟(深志城(松本城)の受け取り役を務めた)長益、(本能寺の変で信忠と共に消えた)長利にも領地を分け与えなかった。不自然な事件がいくつか起きている。3月3日、信忠軍は旧武田領の領民の反発が起こることが明白な法華寺周囲の諏訪大社上社本宮に放火した。まるで徳川家康が旧武田家臣を調略し易くするため放火し、本能寺の変直後に徳川軍が旧武田領に進軍し、甲斐、信濃を領地とするために行なったように見える。信長と光秀が法華寺から見える諏訪盆地で模擬合戦を行った。光秀軍が信長軍に圧勝し、信長の機嫌を大きく損ねた。普通なら光秀が信長・諸将の前で謙虚にふるまうべきところ「(武田家滅亡に)骨を折った甲斐があった」と発言したことで、信長が激怒、光秀を殴り蹴りした。2カ月後の本能寺の変の理由作りを二人で演じていたと読めてしまう。 (奈良)大峰山を遥拝する本堂の裏に、上述の歴史と全く関係ない豪快な瀧庭があった。単純な庭で日光東照宮と仁徳天皇陵を結ぶ神の通り道がある山、瀧、沢池、(吉良上野介の孫)吉良義周の墓石、そして仰ぎ見られる天空から成る。鑑賞者の視点の違いで大きく四つに見える庭だ。庭をそのまま見れば山と沢からなり封建時代の犠牲者と言える吉良義周の墓石が見えるので「41山澤損(さんたくそん)損ずる道」己を損しても無私の心を以って天下国家に益そうという心が大切であることを感じさせてくれる。山裾に雷のように轟く瀧があるので「27山雷頣(さんらいい)食し養う」正しいことを、正しいものを、正しく養うことが大切であることを感じさせてくれる。見上げれば山の上に天空があり風を感じさせてくれ、目前には雷のように轟く瀧と、天空を反射する池があるので、典型的な日本庭園が画く「61風沢中孚(ふうたくちゅうふ)誠意内にあり」親の子に対する情愛のような心を持ってこそ真の和が生まれ、信頼が生まれることを感じさせてくれる。風を感じさせる天と山、目前には沢を取り囲む地面、大きく観れば「42風雷益(ふうらいえき)益する道」損が損で終わることはない、損は必ず益するものが生じることを感じさせてくれる。チャンスを掴み風のように従い、過ちがあれば雷のような決断で改める。以上4つの風情を混在させた単純であるがゆえの力強い庭となっている。信長に占領されたことに対する反発なのか、武田家臣の心意気を庭に画いたと読んだ。この庭の精神は負けるはずがない戦争に負け卑屈な立場に追いやられている日本人を励ますものだと思った。