四庭園の東、一乗谷山頂上には一乗谷城跡がある。上城戸、もしくは下城戸が破られても一乗谷に流れ込んだ敵は砦のような館から攻撃される。南陽寺跡も曲輪の形になっている。朝倉軍は応仁の乱で負け知らず、強い朝倉軍は援軍参戦することで、政治的に有利な立場を維持し続け、中国貿易を行うなど繁栄していた。しかし越前朝倉氏第11代当主、義景は戦国時代を終わらせる時代に突入したことを読んでいなかったのか織田信長と敵対した。義景は信長の決断の速さと軍の移動スピードに負け、自軍を消耗させ続け、最後は兵に逃げられ一乗谷で戦うことすらできず、大野郡へ逃亡、かつては強固な協力関係にあった(勝山市)平泉寺など天台宗僧兵からも見捨てられ、従弟の朝倉景鏡の裏切りで自刃した。信長は一向一揆の勃発を見越してか、朝倉氏の旧臣達の同士討ちを狙ってか、越前を直接統治せず、朝倉氏旧臣の桂田長俊に(信長が全焼させた)一乗谷で館を構えさせ統治させた。桂田長俊に反感を持つ朝倉氏旧臣の富田長繁が土一揆を扇動し一乗谷に攻め込み桂田長俊を討った。土一揆は本願寺の指導でまたたく間に巨大な越前一向一揆となった。土一揆を扇動した桂田長俊は朝倉氏旧家臣達を攻撃目標としていたので、越前一向一揆は桂田長俊と対立、無理な戦いを進める桂田長俊は部下に討たれた。勢いついた越前一向一揆は天台宗の寺々を攻撃占領した。朝倉景鏡は平泉寺で討たれ、(天台宗)平泉寺は全焼消滅した。(天台宗)豊原寺が奪われ一揆衆の本陣となった。1574年(天正2年)信長は越前を失ったが、本願寺が派遣した下間頼照ら坊官の行政が越前人の求めるものでなく一揆衆は内部崩壊した。翌年、天正3年8月、信長は3万強の軍勢で越前に攻め込み、9月、豊原寺の全山焼き討ちをもって越前一向一揆を鎮圧した。信長は一向一揆衆の大量虐殺を行い、更に数万の民を奴隷とし連れ出した(売り払ったのだろう)。柴田勝家、羽柴秀吉、明智光秀、前田利家、細川藤孝ら本能寺の変以降の歴史を動かした武将と共に、(信長弟)信包、(信長二男)信雄、(信長三男)信孝、(信長弟嫡男)信澄が参戦している。信雄は大量虐殺戦に参戦していることが多い。信長は戦乱の世が終われば信雄に犠牲者慰霊の役割をさせることを考えていたのではないだろうか。1592年(文禄元年)秀吉の命で織田信雄の嫡男、秀雄が大野郡5万石の領主として大野城に入り、約8年間、朝倉義景が自刃した地を統治した。上述の戦乱とは無縁なように南陽寺跡庭園は朝倉館跡庭園と同じく神の降臨を促す庭になっている。中心石の頭は優しく尖り、左右に少しずんぐりとした石が置かれ三尊石組となっている。池を取り囲むように複数の神の着座石が置かれ、三尊石に宿った神を中心に、複数の神が着座石に座り談笑しているように見せている。池をはさみ三尊石と対面するのは比較的大きなずんぐりとした石で、まるで武将、或いは僧侶のようだ。位の高い人を模した中心石と対話している風になっている。渓流や小川は見えないが、山水を貯え流し出す小さな貯水箱から流れ出る水音が立っている。神を呼び寄せる庭なので、往時には近くに渓流があったはずだ。南陽寺は朝倉氏の子女を入寺させるためにあったので、中心石は女神自身なのだろう。女性の心を癒すこと、位の高い女性の生き方を見せることを目的とした庭だったように見える。現在は山裾に整然とスギが植えられているが、築庭時は周囲に大木はなく、池回りから背後の山裾にかけ(勝山市)平泉寺白山神社の庭のように緑の絨毯のような苔面が広がっていたのではないだろうか。近代庭園でよく見られる石々の先端を一線上に一致させ庭全体を綺麗にまとめるようなことは行わず、石々の個性を見せている。石々が鑑賞者の体の波動を引き込み、石々に宿る神の集まりに参加させるようにしている。朝倉氏の栄華を庭が表現し続けている。