永平寺山門中庭

中庭は登龍門を表現しているのだと思う。厳冬期、永平寺に修行僧への入門を請うため、若者が門に立ち並ぶ。入門資格を持ち得ることができた恵まれた若者達が集まりにぎわいがある。先輩僧侶の厳しい応対は、これから待ち受ける厳しい修行を乗り越えさせるための暖かい心使いだ。入門希望者は気も心も充実し、修行を乗り越えられる体力がある。入門を受け入れる永平寺には大きな蓄えがあり、指導力がみなぎっている。両者、最高、最善の状態で臨むので賑わいあって当然だ。入門者に無理をさせ体に異変が起きるのを防ぐため先輩も真剣だ。中庭はその雰囲気を盛り立てている。水の落差を利用し、水を湧き出させる巨大な鋳造製水鉢上端の水吐き出し口から、水が溢れ落下し水音が立っている。山斜面にある伽藍なので、僧堂側からの急流音が中庭に響いている。コケ面に、葉の裏面に経文を書いていたと伝わるタラヨウ、季節が明瞭なカエデ、常緑のサツキ、ツツジ、スギを配している。龍の姿のマツが無いので、龍には簡単になれないと暗示している。私は修行者でないので座禅や瞑想について書ける資格がないが、只、座り自らの心と向き合うことは、自らの心を最も大切にする行為だと思う。永平寺の僧侶が述べておられた人には優しく親切に、女性は愛嬌を持って人と接するべきだという言葉は、座禅において自らの心に優しく、親切に、愛情を持って接すべきだと言うことなのだろう。座禅中、自らの心と接するのは自らの頭脳だ。頭脳が発する理屈、理論、気持ちが心を静め、なだめ、心を整理し、心に安らぎを与え、心のレベルを向上させる。永平寺の僧侶は良く母親を引き合いに出す。自らの心を一番なだめることができるのは母の子への思い。逆に言えば母親に捨てられた人は自らの心を守るため気配り上手となるが、自虐に陥り易い。不幸に陥った人が座禅に救いを求めるのは、心が発する救いを求める信号に動かされたものだ。絶えない清流音、綺麗な空気、佛気溢れる清い環境の中で、静かに呼吸し、節度を持って精進料理を頂き、経を唱え、座禅三昧の生活を送る。心にとってこれ以上の幸せが有るのだろうか。それぞれの修行僧の頭脳が自身の心に微笑みかけ、素直な心へと導く。やがて煩悩は拭い去られ、宇宙との一体感を得、心が道元禅師の心と一体となり、悟りの世界へと進んで行くのだろう。自らにとって最も大切なものは自らの心。その心を幸せにするため、只管打座を行い、自らの心と向き合うべきことを教えている。承陽殿に並べられた歴代住職の位牌を拝し、曹洞宗大本山永平寺僧侶と自由な一般人は別世界に住んでいると感じた。