龍泉寺本堂西庭(若狭)

本堂は西北に北京紫禁城を、東南に静岡、油山寺を遥拝している。紫禁城乾清宮と油山寺山門を結ぶA線は本堂を通過する。東北には織田家発祥の地、劔神社を、西南には亀山城を遥拝している。劔神社本殿と亀山城西側を結ぶB線は本堂を通過する。A線とB線は本堂で直角に交差する。当然ながら本堂はA線とB線に平行に建てられている。本ブログ「織田信長の躍進」シリーズで推測したが織田信長、信忠親子は明智光秀と共謀し本能寺の変で消え満州に渡った。信長は愛新覚羅一族を明軍に虐殺させ、信忠はヌルハチを背乗り女真族統一戦争を起こし、統一後、明と戦い、ヌルハチこと信忠の息子ホンタイジが清を樹立、東南アジアに長い平和をもたらせた。このような歴史が文書で残っているはずもないが、庭、地勢、建物の指し示す方向は正直で、真実を読み取ることができる。織田信長と明智光秀の足跡をたどれば本能寺の変が記録文書と一致していないことは明確であるのに、未だ記録を基にした議論が絶えない。本堂が見つめている北京紫禁城は清皇帝の居城。油山寺の守護神は天狗の姿をした健足の神様。劔神社神官の子孫は織田信長、信忠、信雄。亀山城は明智光秀240万石と縁深い城で本能寺の変の出撃城。このような不思議な遥拝先を持つ本堂は清朝に敬意を示し、織田家に祈りを捧げる目的を持っていると読める。本寺は河内源氏の子孫、武田信高が建立した由緒があるので、天海僧正がA線とB線との交差点に本堂の整備を行わせたとも推測できる。立派な山門前の石橋と池は北京紫禁城、劔神社を遥拝する本堂にふさわしい作りになっている。庭分析のためグーグル地図で神佛の通り道を調べると、永平寺承陽殿と伊弉諾神宮本殿を結ぶ神佛の通り道は庫裏のすぐ東側を通過した。總持寺祖院法堂と亀岡(元愛宕)愛宕神社本殿を結ぶ神佛の通り道は本堂の東側を通過した。横浜、總持寺大祖堂と出雲大社本殿を結ぶ神佛の通り道は当寺の境内南端を通過した。總持寺大祖堂と出雲大社本殿北側のスサノオ社を結ぶと本堂の少し南、庫裏を通過した。三つの曹洞宗大本山の祖廟と日本古来の強い神々の聖地を結ぶ神佛の通り道が当寺で交差しているので、庭は神佛の降臨庭と呼べると思った。深く掘り込んだ心字池は日照り続きにより干上がっていた。心は池のようなもので、池の水が枯れれば、煩悩の象徴である魚も存在できず、池すなわち心が死んだ状態となる。生きているから心に煩悩が生じるが、煩悩が無くなれば死を意味する。枯れた心字池から修證義の書き出し「生を明らめ死を明らむは佛家一大事の因縁なり、生死の中に佛あれば生死なし、但生死即ち涅槃と心得て、生死として厭うべきもなく、涅槃として欣うべきもなし、是時初めて生死を離るる分あり、唯一大事因縁と究盡すべし」を思い出した。心字池は水の有無で生死の姿を見せ、生死について考えさせるようにしている。修證義の書き出し通り生死について考えれば、生きながらに煩悩から解脱できる。つまり、池水が消えて魚が死んでも池は残る。そこに雨が降れば池は復活する。同じように人が死ねば煩悩は消えるが、人の心は残る。そこに波動が生じる水のようなものが注がれば心は復活する。池に魚、心に煩悩は付きまとうものだが、魚や煩悩が死んでも池や心が消滅することはない。亡くなった先人と同じ形の心を持つことが出来れば、先人の心が蘇ったと同じことだ。庭は上述の通り、道元禅師の祖堂を起点とする神佛の交差点にあるので、曹洞宗は道元禅師の心を修行僧に育み、道元禅師と同じ心を修行僧の体内に形成するための宗派であると心字池にて示したのだと思った。深く掘り込まれた心字池は頭の平たい座禅石で囲まれている。向かって右手、三尊石を通った枯水が瀧となり心字池に注がれ、池水となった後、向かって左手の土橋を潜り下流に流れて行くように見せている。実際には土橋の先は行き止まりで、山から流れ込み或いは降り注がれた雨水は地面に吸い込まれ地下水となって消えて行く。三尊石の背後には石垣のような石組みがあり、中央には対岸から心字池に突き出した半島があり、半島の上部は神楽舞の舞台となっていて、神が石に出現したような形の権現石、神が降臨しているような降臨石が多く置かれている。池の周りに頭の平たい多くの座禅石が置かれているので、降臨し座禅石に座る佛達が舞台上の神楽舞を見上げているというふうに作られている。本堂近くの石は大きく、池を渡る飛び石も大きく、土橋も大きいが、舞台上の権現石や降臨石は小さい。その視覚的効果で舞台背後の借景山が迫ってくる。小さな庭だが迫力がある。道元禅師の教えを内在させ、神佛に囲まれた庭であるが、本堂から庭を鑑賞することは北京紫禁城を遥拝することに通じるので、神佛の世界を北京紫禁城に送り届けようという願いを込めた庭だと読んだ。江戸庭園らしくアカマツの葉が鮮やか、サツキ、アセビ、ツワブキ、ナンテン、サルスベリ、イヌマキ、ツバキがあり、チャノキが多く、日本海側らしくヒメアオキがある。厳しい冬を幾度も超えたサクラがあり、背後にはヒノキ、スギ、そして山の木々、若狭は雨が多く、冬は雪が深くなる厳しい自然環境なので、代を重ねた樹木たちだと思った。しっかりと作られた庭が守られ続けられている。