石谷家住宅

江戸時代、大庄屋だったので、建屋に遥拝先が有ると思い、グーグル地図上で母屋中心を起点に、庭を貫く線を、建屋が向く先に伸ばし続けると、吉野、金峯山寺本堂に至った。母屋と金峯山寺本堂を結ぶ遥拝線は、道を隔てた東隣の鳥取2代目藩主、池田忠雄の位牌を祀る興雲寺-六甲八幡神社-反正天皇百舌鳥耳原北陵に隣接する方違神社-九品寺裏山古墳群-巨勢山古墳群を貫く、この遥拝線両側には多くの神社、古墳が点在しているので、建屋内から正面の庭を鑑賞することは、多くの聖地、寺社を同時遥拝し、対話することに通じている。そのことから大庄屋時代の庭は神佛との対話、及び聖地、寺社を遥拝するための庭だったと推定した。庭は池泉庭園、露地庭、枯山水庭園、芝庭、中庭、坪庭からなり、池泉庭園に対話庭の雰囲気が少し残っているが、謙虚さより富と力を誇る方が勝っているので、明治以降、豪放な明治の庭に改築されたと思った。先ずは池泉庭園、一見、江戸庭園に見えるが、江戸時代において大庄屋の身分では使わせてもらえなかったような明るい石が多用されている。明治以降の技術で掘り出した石を使い、武家庭園を超える庭を目指し石組みしたように見える。新建座敷から池泉庭園を鑑賞すると、瀧音は聞こえるが瀧は見えない。手前の白い小砂利上に飛び石があり、広い池の対岸には人を模したような多くの石や、石で固めた築山があり、その上に大木と塀があり、空を仰ぎ見せるようにしている。庭に向かって左側、池手前の枯山水庭園の築山上には石塔が立ち、マツの枝が羽を広げたように池に突き出ている。右手には江戸座敷と茶室があり、広い空が広がっている。この庭の風景は整っている。石塔は築山上にあり、水面を照らす石灯籠は水面近くにあり、対岸を護岸する石々は必要なところにある。それぞれの樹木がでしゃばることなく調和がとれている。茶室へと伸びる飛び石、石橋を渡れば対岸に行くこともできる。石塔、石灯籠、樹木、飛び石、石橋がそれぞれの役割を果たすべく最適の位置に置かれ、それぞれが役割を果たしている。目前の庭石などのように、家の中の一人一人が、それぞれ自らの立場を考え、自らに課せられた役割を果たせば、家を正すことができる。それを教える庭となっている。石を積み上げた壁、塀、建屋、築山で囲まれた庭なので瀧音が籠り、鳥のさえずりが止まらない。微風が爽やかなので、いつまでも新建座敷に座っていたくなる。整った家、整った組織においては居心地が良いということなのだろう。江戸座敷から牛臥山とそこから流れて来た水を流す高低差ある一条の瀧が見える。瀧は巨石などで囲まれ、瀧周囲は隠され、朦朧とした風景を作り出している。瀧風景は陰の極み、女性器、信仰対象となるべき風景になっている。この瀧風景は創生の苦闘を表現している。母の胎内にて、自らの生命が誕生する時、苦闘という試練が待ち受けている。新しい生命体が誕生するには条件が整わなければならない。多くの人々の愛情、手助け、協力によって生まれることができる条件が整う。何か新しいものを生み出す、創設するには、多くの人の愛情あふれる協力がなければならない。そのことを画いている。喫茶室のある居間・食堂から見られる芝庭は明治、大正の典型的な富豪庭園となっている。天の上に進む方向に逆らい下に下へと向かう水の流れを見せない枯山水の太い枯川を中心とした、明治天皇に逆らわない意思表示をした庭である。頭が平たい石が多用され、石塔、石灯籠、ヒノキの巨木、イチョウがある。時代の流れに逆らわず時代の流れに乗るべきことを見せている。明治時代には江戸時代からの流れで易経が流行していた。江戸庭園の築庭師が活躍していた時期であり、封建制度から解き放された時代だったので、易経思想を内在させた味わい深い庭が造られたのだろう。神佛の通り道を調べると、出雲大社本殿と鞍馬寺金堂を結ぶ神佛の通り道は月山富田城跡-中蒜山頂上付近-石谷家住宅-興雲寺本堂-安全山頂上付近-丹波市氷上町、稲荷神社を通過した。大山、大神山神社奥宮と京都、新日吉神宮を結ぶ神佛の通り道は石谷家住宅-興雲寺本堂-沖ノ山頂上付近-園林寺跡-嵐山頂上付近-梅宮大社境内-東本願寺-渉成園-智積院を通過した。韓国桐華寺と仁和寺五重塔を結ぶ佛の通り道は島根、松尾山城跡-石谷家住宅-興雲寺を通過した。これらの神佛の通り道両側には多くの神社などがあり、当庭園は神佛の太い通り道の交差点、神佛の降臨地となっている。石谷家住宅と庭は保存され続けると思った。