宝隆院庭園

宝隆院庭園 鳥取城

鳥取城石垣は美しい。特に天球丸巻石垣が美しい。城内にフレンチルネッサンス様式の西洋館「仁風閣」が残されている。2階のガラス張りバルコニーから宝隆院庭園が見える。西洋館に付いている庭は空を美しく見せる為の庭であるが、宝隆院庭園はそうではない。借景の山々を美しく見せる庭でもなく久松山の一部分となっている。

宝隆院庭園を鑑賞した第一印象は「江戸庭園の何をいじれば庭の心を消すことができるのか」だった。江戸末期に造られたことを知らなければ、近代庭園と信じてしまう庭だ。城内にあるべき大名庭園でなくなっている。仁風閣周りの芝面に続く近代的公園になっている。

庭は人と似通ったところがあり、人の顔に経歴が刷り込まれるように庭にも経歴が刷り込まれる。ネットで庭の経歴を調べてみた。

鳥取藩第11代藩主、池田慶栄(1834年~1850年)が17歳で逝去した。1863年(文久3年)未亡人宝隆院(聡姫)のために第12代藩主、池田慶徳(1837年~1877年)が扇御殿を造った。その庭が宝隆院庭園。1868年、明治時代に入った後、化粧の間「宝扇庵」だけを残し扇御殿を取り壊した。

1907年、後の大正天皇の山陰行啓時の宿泊施設として「仁風閣」を建てた。1943年(昭和18年)の鳥取大震災などにより、宝隆院庭園が荒廃した。1971~1972年(昭和46~47年)宝隆院庭園が復元・整備された。

宝隆院(聡姫)は鹿奴藩主池田仲律の娘なので、実家は鳥取城内或いは鳥取藩江戸屋敷内にあったはず。明治維新以降、宝隆院(聡姫)は鳥取城から退去したことだろう。情報はこれだけなので江戸末期の庭は想像するしかない。想像した江戸末期の宝隆院庭園は東北-東方向に鳥取城、その背後に久松山(きゅうしょうざん海抜263m)を、東南方向に鳥取東照宮がある山を借景としていた。その方向の更に先には鳥取藩池田家墓所がある。大名庭園なので鳥取城を偉大に見せるべきだし、鳥取藩にとって一番重要な礼拝先、鳥取東照宮の山を見せるべきだ。それらを遥拝するポイントと遥拝目印があったはず。庭にメリハリをつけるために陰陽を明確に感じさせるデザインがあったはず。庭に久松山の森に連なっているよう樹木を配し、森から流れてきた清水を楽しみ、女性の庭らしく年中花を咲かせ、庭先で鳥、蝶、トンボ、蝉、蛙などを楽しみ、季節を明確に感じられる庭だったはずだ。想像した庭と現在の庭との最大の違いは鳥取城の石垣の相当部分が樹木で隠れていること。東照宮の山を見せないようにしていること。東照宮遥拝ポイント、遥拝目印がないこと。

鳥取城三階櫓のある二の丸石垣の長手方向(北西-東南)ラインを東南方向に伸ばすと鳥取東照宮に到達する。鳥取城内から直接遥拝できる山を選んで東照宮を造ったと思う。鳥取藩にとって東照宮は重要なものなので、扇御殿は東照宮に向けていたはずだし、扇御殿から東照宮の山を直接遥拝する庭になっていたはず。明治維新後、扇御殿が撤去されたことで庭は遥拝の方向性を失った。更に東照宮への遥拝をさせないよう庭を改造したように見える。考えられるのは池の中島に通じる飛び石を鳥取東照宮方向と違う方向に付け替えたこと。東照宮の方向へ歩いて行くことをイメージする道や飛び石を排除したこと。鳥取東照宮を囲む山を直接見せないためにモミ、スギ、ヒヨクヒバを大木に育てその枝を掃わず、その足元にマツ、ツバキ、カエデなどを育て、庭の外の樹木も大木にし、東照宮の山を隠してしまったこと。庭観察していて気づいたことは江戸庭園なのに庭石が少ない。三尊石など東照宮を遥拝する目印とする石、遥拝先の神が宿る石を撤去したように見える。庭の端に残った「宝扇庵」そして「仁風閣」共に遥拝先を持っていない。「宝扇庵」の向きを変えた可能性もあると思う。そして鳥取城の石垣と庭との間の木々が大きくなるのを放置し、城壁がほとんど見えないようにした。築庭当初は城壁上の白壁塀、明るい城壁、白壁の三階櫓が陽のシンボルとなり、庭の池と城背後の久松山とが風景の中に沈む形(陰)にして陰陽バランスをとっていた。池によって三階櫓をそびえ立つように見せ、背後の久松山と庭にて城壁上の白壁塀、三階櫓を浮かび上がらせ威厳ある城を見せていたはず。

明治政府~昭和政府の最大目標は封建制度(身分制度)の徹底破壊にあった。明治維新後、それまで頂点にいた武家、公家を手なずけ、封建制度を象徴する城、大名庭園を破壊し、封建制度を支えた佛教勢力の力を削いだ。明治維新以降、武家、公家が爵位を得て依然として身分制度のトップに立っていたように見えるが、その実、軍人達に爵位を乱発し爵位の値打ちを下げ、敗戦で爵位制度を廃した。武家、公家の子弟を一括管理し軍国政策に関わる仕事に就かせた。これも敗戦にて一掃した。歴史を大観して見ると明治~昭和政府が行ったことは見事だと思う。その代償として大量の人命を奪い、大量の文化遺産を破壊し、人々の心を傷つけた。

大名庭園が遥拝先を失うことは庭の心を失うことだと思う。鳥取城は復元工事が開始された。封建時代(身分制度)は完全消滅したが、封建制度の象徴だあったはずの城を復活したがる。城は日本人の心の拠りどころ。その城には大名庭園が必ずあり城を偉大に見せる。大名庭園は城を偉大に見せるだけではなく、源氏の聖地を遥拝するための祈りの場であった。改造された日本の庭を復活させるには庭にあった源氏の聖地遥拝を戻すべきだと思う。

幸いこの庭は根本的な改造が行われていないので、樹木の枝を掃い、大木の幹と幹との間から鳥取東照宮の山を直接見えるようにし、かつてあった扇御殿のように遥拝ポイントを設け、遥拝目印となる石を置き、庭園内の飛び石や遊歩道の一部を東照宮に向かう方向にすれば甦る。そして修復した鳥取城が良く見えるように鳥取城方向にある伐採すべき樹木を伐採し、枝を掃えば威厳ある鳥取城全体を見せることができる。たちどころに魅力に満ちた大名庭園が甦ると思う。