「二之丸庭園」「本丸庭園」
石高に比べ立派すぎる赤穂城、海に半分突き出した城だったので千種川から引いた上水道で城内、城下各戸に給水していた。取水口を破壊されたら開城せざるを得ない。海上に向かって示威する城だが赤穂藩に水軍はない。浅野家時代(1645年~1701年)の石高は5~5.3万石。1633年(寛永10年)江戸幕府が改定した『徳川禁令考』で各藩に指示した軍役は1万石当たり235人、内、戦闘要員は150人程度と見積もれるので、1万石あたり旧陸軍1個中隊相当の保持が義務付けられた。しかし、これは平時の軍務なので、戦時となれば倍増することは可能(文禄の役で、秀吉は江・尾・濃・伊の4カ国の大名に1万石につき350人を出す規定を設けた)。いずれの藩も実際の石高は検地石高より高かったので、実際には幕府指示以上の軍力を持つことは可能だったが、規定に従って見積もると、浅野家5~5.3万石には旧陸軍の大隊(4~5個中隊)以上の軍事力保持が課せられていたことになる。尚、領地を自らの力で防衛できる大名は旧陸軍の1個歩兵連隊相当を備えることができる10万石以上(1個歩兵連隊は3個大隊12個中隊から構成されていた)。10万石以上の大名の格式はそれ以下の石高と区別されていたので、幕府は10万石大名に1個歩兵連隊程度の兵力を擁するよう要求していたと考えるのが自然だと思う。ちなみに自らの力で一方面作戦を行える大名は旧陸軍の1個師団相当を備えることができる30万石以上、自らの力で開戦を決断できたのは1個軍団を備えることができた幕府と金沢藩(加賀100万石)のみとなる。赤穂藩など小藩は幕府の指揮下にあったことが見て取れる。明治時代まで長期間、赤穂藩を統治した森家(1706年~1871年)の石高はたったの2万石、一般的に3万石以下の大名は城を持たせてもらえず、陣屋で執務を行った。1701年(元禄14年)赤穂事件にて赤穂城の受け取り役を務めた龍野藩主・備中足守藩主。その足守藩の石高は2.5万石、陣屋跡は赤穂城と比べ物にならない小さなもので、隣接する大名庭園、近水園(おみずえん)も簡素だ。豊かでなかった足守藩より少ない2万石でよく赤穂城が維持できたものだ。いくら塩の収入が有ると言っても借金が増え続けたことが判る。2万石は2個中隊が組織できる程度。有事の際でも赤穂城に閉じこもり城を守るしか手の無い規模である。以上から類推するに、江戸幕府は瀬戸内海の海上封鎖ができる位置にある赤穂藩に水軍を持たせず、赤穂城を守ることに専念させていたことが判る。海上から見て威圧感ある城をバックに水上警察、船舶監視の役割を与えていたのだろう。赤穂城天守台の向きを調べると石垣基礎は広島城天守閣、広島城の堀と同じく毛利輝元築城の倭城、釜山鎮支城跡(現 子城台公園)に向いていた。浅野宗家が守る広島城と歩調を合わせ朝鮮半島有事の際に備えたように見える。有事の際、赤穂城内に幕府の施設が置かれることを想定した城だったのかも知れない。広島城においては日清戦争時、広島大本営が設けられ明治天皇が227日間も籠り作戦指揮を執られた実績がある。定期的に朝鮮通信使が播磨灘を航行しているので、その航海安全確保の城だったとも読み取れる。以上のことから水上警察、航海船の監視活動、朝鮮半島での有事に備えたもの、朝鮮通信使の航海安全確保の城だった観点から庭を観察した。「二之丸庭園」説明文に(赤穂藩が招いた)山鹿素行(1622年~1685年)がこの庭に遊んだと記されていた。赤穂築城工事は1649年(慶安2年)~1661年(寛文元年)、その期間中に山鹿素行が助言を行い二の丸周辺の手直しがされた。1675年(延宝3年)山鹿素行が江戸にもどったので、築城時には完成していた庭は城の目的に沿ったものだったはずだ。儒学者の意見を取り入れたためか池は太極図をベースに設計されたように見える。直線の白壁塀が目立つ庭なので、白壁塀で特定の聖地を指し示していること見て取れる。庭南側の西仕切りとその南側の掘に沿って東に線を伸ばすと三韓征伐を行った神功皇后の陵に到達した。二ノ丸北側から本丸門を見て内堀の左北側の掘に沿って線を西に伸ばすと広島城に到達した。本丸門を見て内堀の右北側(庭の南側)には二つのラインがあるが、本丸門に近い内掘ラインと白壁塀ラインに沿って西に線を伸ばすと厳島神社に到達し、次の内掘りラインと白壁塀ラインに沿って西に線を伸ばすと小呂島の嶽の宮神社に到達した。小呂島は李氏朝鮮の『海東諸国紀』に於露島の名で示された海上交通の要所。これらラインなどが指し示す先から推測するに、庭は朝鮮半島に至る海路を示したもの。よって海を模した池の中の二つの島は壱岐島、対馬となる。二つの島は芝面で古墳の形状をしているので、韓国慶州にある芝生面の古墳を模したように見えてくる。朝鮮通信使が江戸に向かうルートは釜山南の巨済島から海路で対馬、壱岐に寄港し、馬関(下関)を経て瀬戸内海に入り、鞆の浦(福山市)、牛窓、(たつの市)室津などに寄港しながら大坂まで進み、大坂で川船に乗り換え、淀で下船し陸路、江戸城へ向かった。朝鮮半島からやってきた船上の朝鮮通信使は壮大な赤穂城に見入ったことだろう。それらのことから庭に入って一つ目の東屋は朝鮮通信使の下船付近の淀城を抽象的に模したもの、二つ目の東屋は川から海の景色に変わるところにあるので朝鮮通信使が川船に乗り換えた付近の大坂城を抽象的に模したもの、川は宇治川、その源泉は琵琶湖、全体を見渡せる高台にある傘形状の東屋は清和天皇陵のある愛宕山だと推測した。庭の池は舟で回遊できるよう深く掘り込まれており、余り波が立たないように池の幅を狭くしている。庭の目的は赤穂城で播磨灘の安全航海確保の役目に当たっている藩主、家臣、藩士が巨済島を出港し大坂に向かう航海中の朝鮮通信使らに思いを至らせ、航海の安全祈願をするためだったと断定したい。よって舟で池に遊べることで航海に思いを寄せ、航海が無事であることを願える波が立たない池にしたのだと思う。この庭から類推するに徳川幕府と李朝朝鮮はお互いに祈り合うほどの一体関係だったと読める。庭背後の城壁と白壁、そして空を借景とした美しい庭である。おそらく城壁の上側から見た庭には借景の播磨灘が加わり、庭の池と海とがつながっていることが実感でき、1655年(明暦元年)第6回朝鮮通信使以降、1811年(文化8年)第12回まで、朝鮮通信使一行が船上から赤穂城を見て感動したように、この庭の城壁上から朝鮮通信使一行の船を見た人達も感動したはずだ。その為に作った城と庭だと思った。「本丸庭園 大池泉」説明文には浅野・森時代の庭園を復元整備したと書かれていた。庭に赤穂城から見た播磨灘が画かれている。播磨灘に見立てた池に乗りだせる波止場が有る。播磨灘を監視し、何時でも播磨灘に乗り出し警察活動、航海安全活動を行う心構えを感じる。御殿から見て池の対岸は四国、島々は小豆島、家島群島だと思う。海に近いので色々な鳥がさえずっている。樹木の幹が塩風で風合を増している。御殿は多賀大社に向けて建てられていたので、源氏聖地の威光を受け播磨灘の安全航海を守る赤穂藩の役割を画いた庭だと読み解いた。庭に藩の重要な収入源だった塩田が画かれていないが、立花氏庭園で干拓地を庭に画かなかったと同様、城のすぐ傍に塩田が広がっていたので画かなかったのだろう。良く復元された大名庭園だと思った。