東福寺方丈八相の庭

遥拝の渦の中にある静かな庭

1939年(昭和14年)に完成した重森三玲庭園、私には方丈南庭の石々が河川を縦隊進軍する陸軍将兵に見えてしまう。横たわる大きな石は大砲か軍馬だ。まもなく陸地に上がり、芝面の築山に到達しようとしている。日露戦争で鴨緑江会戦から奉天会戦まで第1軍司令官として連戦した黒木為楨大将が遼陽会戦において実施した太子河渡河作戦を画いたものだ。静かな渡河作戦の雰囲気がある。白砂川のあちこちに渡河で発生した丸い波紋が見られる静かな河だ。対岸付近の川裾や対岸に計6個の頂きがある。(第一軍)第二師団は渡河後、饅頭山を、(第一軍)第十二師団は五頂山を占領した。庭の計6個の頂きと数字が合う。方丈西庭は四角に刈り込みしたサツキの刈込を井田状に並べている。それぞれの四角い刈り込みが規則正しく整列した連隊もしくは旅団に見えてしまう。3体の石は三尊石と言うより軍司令官と参謀のように見えてしまう。方丈北庭は市松模様に敷石を並べている。まるで多くの敷石は戦死した将兵の墓標に見える。墓標が谷川の流れる音を聞いているように見える。方丈東庭は円柱の石を置き、北斗七星を表現している。北斗七星は聖なる星なのに東司(厠所)建設で余った円柱石を使っている。地上を這いまわる帝国陸軍を表現したかったと推測した。北斗七星を支配する北極星は崇拝の対象であり、天子に例えられるが、北極星を模した石が庭に見当たらない。よって庭の支配者は庭の外に居ることを暗示している。庭の北斗七星は北ではなく東南を指し示しているので、帝国陸軍は特定の支配者に完全支配され、その支配者は東京ではない東南方向に居ると深読みしたくなってしまう。作庭時期は軍部が中国海南島を占領し、次にフィリピン西方の無人諸島の領有をし、天津の英仏租界を封鎖し、アメリカ政府から日米通商航海条約の破棄が通告され、ノモンハン事件が発生した昭和14年である。政治色濃厚な庭でないはずが無い。方丈四面の庭にてそれぞれ、軍事作戦、軍団の整列、戦死者、特定の支配者の下で動く陸軍を表現し、連続する4つの庭にて帝国陸軍の本質を見せたと結論付けたい。本来の東福寺の庭は各地の神々が一堂にそろって遊ぶ温和な庭だったと思う。東福寺が遥拝している先を見ると、勅使門、六波羅門、三門、仏殿、方丈、庫裏、禅堂、経蔵、東司、通天橋、参道は皆同じ方向に向き、南に奈良巣山古墳、西に草梁倭館跡(釜山龍頭山公園)を遥拝している。建屋の向きから考察すると江戸時代、対馬に派遣され外交文書作成や使節の応接、貿易の監視などを行う僧侶を輩出する役割を持たされていた寺となる。東福寺は京都の東南に位置するので、京都の多数の寺社が遥拝し合う遥拝線の通り道となっている。神功皇后陵と建仁寺三門とを線で結ぶと、その線は庫裏中心、方丈の西側、そして伏見稲荷千本鳥居、宝塔寺境内を通過する。石清水八幡宮と比叡山延暦寺大書院とを線で結ぶと、その線は開山堂と普門院を通過する。八坂神社と伏見稲荷大社とを線で結ぶと、その線は庫裏、方丈、そして智積院境内を通過する。伊勢神宮と大覚寺(旧嵯峨御所)を結んだ線は本堂を通過する。京都御所と春日大社を結んだ線は庫裏中心、方丈西北の角、開山堂、そして三十三間堂を通過する。京都大宮御所と談山神社本殿を結んだ線は禅堂、そして伏見稲荷千本鳥居、宝塔寺方丈、旧伏見城跡を通過する。多賀大社と高千穂神社を結んだ線は安土城跡、天智天皇山科陵、東福寺塔頭霊源院を通過する。多賀大社と生田神社を結んだ線は開山堂を通過する。天智天皇陵と伊弉諾神宮を結んだ線は東福寺塔頭大機院を通過する。高野山金剛三昧院と大谷本廟を結んだ線は 開山堂、本堂、そして智積院密厳堂・金堂・明王堂を通過する。東隣の泉涌寺雲龍院と出雲大社本殿を結んだ線は東福寺塔頭普門院、東寺(北大門、大日堂)、西芳寺を通過する。建仁寺大書院と熊野本宮大社大斎原を結んだ線は開山堂、楼門、方丈と当庭園、伏見稲荷大社奥宮を通過する。当寺といくつかの聖地を線で結ぶと、遥拝線の途中にたくさんの寺社がある。多賀大社と当寺本堂を結んだ線上には庫裏そして泉涌寺塔頭今熊野観音寺、圓満院門跡がある。籠神社と当寺本堂を結んだ線上には龍寺庫裏、東本願寺がある。熱田神宮本殿と当寺本殿を結んだ線上には泉涌寺塔頭雲龍院、月輪陵がある。永平寺と当寺本堂を結んだ線上には清水寺三重塔、南禅寺山門、永観堂境内がある。これだけ遥拝線が交差する地で、熊野本宮大社大斎原と同一経度にある地に、長く日本の政治を司って来た河内源氏が立派な伽藍を建てなかったはずが無い。庭は遥拝の渦の中にある東福寺の中心にある。本来の庭は聖地と聖地との間を行きかう神々が佛の下で一堂に集まり遊ぶ穏やかな庭だったはずだ。重森美玲作の八相の庭が美しいのは遥拝による応援があるからかも知れない。