圓光寺 十牛之庭

近代庭園に多く見られる多くの樹木の葉の間から苔面に零れ落ちた太陽光を楽しむ庭だが、十牛図の故事を画いたせいか、近代の作品と思えない深みがある。書院内から庭を見ると、飛び石が牛石の所で途切れ、牛と共に旅に出る予感を持たせている。書院近くに大きな牛石を、遠くに少し小さな石を置くことで庭を広く見せ、苔面を太陽光にて強調し、そこに二股に分かれた多くのカエデの幹を見せ、可憐な花を咲かせるアズマシャクナゲ、チャノキ、ツバキ、アセビを育てることで、女性美を作り出している。苔面に置かれた石々が生き物のように見え、太陽光を受けることで石々が生息しているかの如く感じさせられる。チャノキが白い花を咲かせていた。多くの葉が天を覆い、幹と幹の間を風が通り抜け、風が苔面をなぞっているように見せ、栖龍池に流れ込む水音を聞かせる。風が地上に行きわたる「20風地観(ふうちかん)観察、省察の道」を表現しているが、天空を見せないことで、現代世界を表現したように感じてしまう。世の中を動かしている天上にいる真の執政者がいったい誰であるのか一般大衆には判らないように天空を隠し、(真の執政者である)太陽そのものを見せず、太陽光の一部のみを地上にこぼれさせ、太陽の偉大さのみを感じさせている。正に現代世界そのものが庭に表現されている。我々一般大衆には世界を動かしている人物が一体誰なのかを知らされず、真の執政者の僕(しもべ)である国会とマスコミが世論を作り、彼らが吹かせた世論の風にて、一般大衆は空気の変化のみを読まされて行動させられる。その行動による吉凶得失すべては一般大衆自身の自己責任とされ、天上の真の執政者、国会議員、マスコミ関係者には何ら損害損失が及ばないようになっている。庭はその時代、その時代を隠すことなく表現した芸術作品だ。