小堀遠州の灯籠
書院の南側、西側、そして北側の「月の庭」まで3面を取り巻くように苔面の庭がつながっている。書院西側の廊下から木々の間を透して京都市内が眺望できる。西側の庭はいつの時代でも夜景が綺麗に見えるポイントだと思った。書院再建前、このポイントから本能寺が燃える様子が良く見えたはずだ。庭の写真撮影は禁止だったので本記事の写真は成就院周囲の写真とした。「月の庭」はワビスケ(侘助椿)による生垣(大刈込)で囲まれている。生垣の外側は崖、深い湯屋谷がある。庭の西側の池周囲はスギゴケ面、サツキの丸刈り、その他樹木による四角い大刈込が配され、ゴヨウマツ(五葉松)が美を添えている。庭の東側は東山に向かって崖を登るようにサツキなどの樹木を四角に刈り込みリズミカルに配している。「月の庭」や書院の下は岩盤なので、盛り土をして池を作り、池を水分の供給源とし、庭として成り立たせたのだろう。庭内に緑に合う白っぽい石、石灯籠を配している。庭園の北~北西方向、湯屋谷の対岸は高台寺の敷地、東山の一部を借景としている。江戸時代の東山はアカマツの山だったが、現在はアラカシ、シラカシ、スダジイなど普通に山で見られる樹木群となっている。アカマツの山を借景としていた頃は空が今より広く、今より明るい庭だったことだろう。夜は京都市内の灯りが白雲に反射し、空が明るいはずだ。最初「月の庭」に面する書院の縁側、京都市内側(西)の「誰ガ袖手水鉢(たがそでちょうずばち)」に座って庭を鑑賞したが庭に締まりがない。焦点が合わない庭という感じを受けた。豊臣秀吉が贈ったデザイン性の高い「誰ガ袖手水鉢」を見て楽しむだけと思えない。「誰ガ袖手水鉢」の影に隠れ鳴く蛙の声を聞きながらピントが合わない理由をあれこれと考えた。一目で人造物と判る「手毬灯籠(てまりとうろう)」「蜻蛉灯籠 (かげろうとうろう) 」が目障りとなってピントが合わないのだろうか。庭園の東側を駆け上るように作った人工的な大刈込と借景の自然林の山との2面がかみ合わずピントが合わないのだろうか。江戸時代の山は人の手で良く管理されたアカマツの山だったが、山の樹木構成が変わったからだろうか。風が吹くと借景の東山の大木からたくさんの枯葉が空中に放出される。黄金色に輝き優雅に舞い上がっている。わざとピントが合わないように借景の山の形と庭の大刈込や石の向きを違えているのだろうか。突然、ガイドさんが『書院内の高座から見ると、「手毬灯籠」「蜻蛉灯籠」「借景の灯籠」が一直線で結ばれたようになり、借景している高台寺の敷地(東山)に庭が続いているようで庭が広く見えます。夜は、連続した灯籠の灯りを楽しむことができます。月明かりに反射した石と共に灯籠の灯りを楽しむことができます。「蜻蛉灯籠」は丸い小さな穴から出た光が池に反射して蜻蛉のように見えます。』と説明された。そこで縁側右に移動して庭を見ると非常に緊張感漂う風景に一変した。体に電気が走るようなインパクトある庭となった。この庭は高座に座る一名の為だけに作られた庭だと判った。小堀遠州はあまり灯籠を使わないと思っていたが、この庭は目線が止まってしまう灯籠を逆に目立つところに配し、目印としている。灯籠と灯籠とを結びつけラインがあるようにイメージさせ、そのラインが東山を突き抜け先につながっているように見せている。大刈込や石も高座位置から見たときに灯籠と灯籠とが作り出すラインをイメージしやすいすいよう、庭の細長い石橋もラインと同じような方向に架けられている。庭の東側の駆け上るような面が視界を狭める役目を果たしている。極端な事を書けば、高座に座った方の脳裏に一条のラインを浮かび上がらせ、その一条のラインにて高座に座った者をノックアウトする庭だ。「借景の灯籠」「蜻蛉灯籠」が作るラインを地図上で先に伸ばすと「仙洞御所」に到り、更に「船形送り火」の山に到る。このライン上には小堀遠州作の庭がある「高台寺」「仙洞御所」「京都御所」小堀遠州作の庭がある「正伝寺」「船形送り火」がある山がある。高座に座れば「仙洞御所」に居られる後水尾上皇を意識させるだけでなく、「高台寺」「京都御所」「正伝寺」「船形送り火」も意識させるようになっている。夜になると「借景の灯籠」「蜻蛉灯籠」の光源を結んだ先に「仙洞御所」があり、後水尾上皇がそこに居られることを更に意識させられる。1639年(寛永16年)成就院は、後水尾天皇の指示と、後水尾天皇の中宮の東福門院和子(とうふくもんいんかずこ)の寄進によって再建された。書院の高座の間に座られたのは東福門院和子で、庭鑑賞を通して「仙洞御所」に居られる後水尾天皇と心を通わせたと読めた。書院上座に座り灯籠が作る一条のラインを見ると御水尾上皇が放つ光が届いたように感じたことだろう。この一条のラインにて後水尾上皇と心を通じさせたことだろう。この庭は東福門院和子と後水尾上皇とが心の交流をするためのもので、お二人の仲の良さが偲ばれる庭だと思った。この庭を見るまで小堀遠州は灯籠を積極的に使わない築庭家と思っていたが、この庭は目線が止まってしまう灯籠を逆手に取って一番目立つところに配し、鑑賞者の脳裏に灯籠と灯籠とを結ばせ白いラインを描かせる画期的な庭だ。ラインの先にある「仙洞御所」を意識させる作りとなっているが、書院の建屋は修学院離宮の方角に向いているので、「月の庭」は修学院離宮遥拝庭園でもある。成就院の各建屋は書院と略同じ方向に細長く、いくつかの建屋をつなげて作っているが、それら建屋の長手方向を浜松城方向に向けている。灯籠と灯籠とが作るラインは「仙洞御所」を、建屋は「修学院離宮」を遥拝している。庭に二つの遥拝先を持つ手法は頼久寺庭園と同じだ。夜は京都市内の灯りの光が白雲に反射し、或いは月の光が白雲に反射し東山上空を明るく見る。月光が庭園の石を明るく照らし石を浮かび上がらせる。夜の暗かった江戸時代、京都送り火の「左大文字」「船形」「妙法の妙」「妙法の法」「大文字」の光は白雲に反射し、成就院庭園の正面の東山上の白雲を光で染めたはずだ。仙洞御所は1627年(寛永4年)後水尾上皇(1596年~1680年)のために造られた。仙洞御所は小堀遠州が築庭したが、後水尾上皇が大きく改造した。1639年(寛永16年)当、清水寺塔頭成就院は後水尾天皇の指示で小堀遠州が再建した。同年に後水尾上皇がこれ以上美しく見せる比叡山が無いという地に山荘御殿(現在の円通寺)を建立し庭を作ったら、それに対抗するように小堀遠州が正伝寺庭園を造った。1653年(承応2年)修学院離宮の造営が始まった。太陽光や月光が背後から差し込む「月の庭」について、ガイドさんが『この庭は月を直接見る庭ではありません。月は本堂(書院)の上を通過します。目が暗闇に慣れてきて、上空から照る月の光が石などに反射し、反射した月の光を楽しむための庭です。』と説明された。小堀遠州の庭らしく「月の庭」の東側に蓬莱山が表現され、西側の池に烏帽子石(えぼしいし)と蜻蛉灯籠を配する亀島、籬島石(まがきしまいし)の鶴島が配している。水面にハスが一輪の花を咲かせていた。烏帽子石が西を向き、頭を下げているように見せているが、この烏帽子石は小堀遠州が自身に似た石を置いたものだと推測した。清水寺の西には苔寺がある。もし烏帽子石が苔寺を遙拝しているなら、夢窓疎石作の苔寺庭園は小堀遠州の手本であり、いろいろな苔を分けてもらえる苔の宝庫でもある。夢窓疎石に敬意を示したものだろう。もし烏帽子石が岡山県高梁の頼久寺に向いているなら、頼久寺を見守っているのだろう。成就院庭園は後水尾上皇と東福門院和子夫婦の庭であり、小堀遠州は自らの名前を出すことができなかった。しかし、灯籠を革新的に使い、鑑賞者の脳裏に一条のラインを生み出させることに成功したことを後世の人に伝えたかった。そのため小堀遠州は自身に似た烏帽子石を置いたのではないかと推測した。