知恩院友禅苑

知恩院前に住居を構え、絵を画いていた友禅染の始祖、宮崎友禅の生誕300年を記念し、1954年(昭和29年)に改修造園された庭。庭テーマが友禅美なので、ウメ、サクラ、サツキ、カエデ、マツが目立つように配され、緩やかにカーブする遊歩道にて優雅さを表現している。入苑すると池の観音像が目に入る。その東山側に茶室と東山の湧き水を引き入れた樹木に覆われた陰の庭、街側に愛宕山と三門を借景にした太陽光を反射する白砂の枯山水の陽の庭があり、友禅像は愛宕山と枯山水庭を眺めている。観音像池には神々を意識させる護岸石や水面から頭を出す石々が置かれていて、堅牢な石橋と観音像の台座が東山の風格に負けない剛健さを表現している。池手前にはサツキの丸刈り、マツが、対岸にはカエデそして厚い樹木が東山に続くよう育てられているので、六角ロケット型台座に立つ観音像に自ずと視線が行く。南無阿弥陀仏を唱えれば阿弥陀仏が体の中に入ったと感じ、諸仏が集う浄土と交わることができる。そのような志を持つ者が一堂に集まり、一心に念仏を唱え浄土の境地に入ったことを表現している。観音像は陰陽庭の境にあり庭中心になっている。池の石組みが神々を意識させる形なので、この池は江戸時代の作品だろうと思い神の通り道を調べた。枯山水庭が借景とする愛宕山頂上と伊勢湾口の神島、八代神社本殿を結ぶ神の通り道は仁孝天皇皇子靈明院墓-妙見宮-西寿寺本堂中心-村上天皇村上陵-仁和寺金堂及び経蔵中心-知恩院御影堂中心-天智天皇山科陵を通過する。西寿寺本堂と知恩院御影堂はこの線下に位置決めしたことが読める。吉田神社本宮と熊野本宮熊野大社大斎原を結ぶ神の通り道は知恩院小方丈東側の脇-清水寺-稲荷山-宝来山古墳-安寧天皇神社などを通過する。北野天満宮本殿と伊勢神宮正宮を結ぶ神の通り道は知恩院三門を通過する。知恩院は京都東山の山裾に位置するので上述以外、多くの神の通り道があり、その交差点なので、知恩院全体が神の降臨地、庭見学をしていると神が宿っているように感じる。観光客は観音像池の傍から入場するようになっているが、友禅苑の設計は普段開けられていない西の端の大きな木の門が入場口で、来客者に東山華頂山を見上げさせながら砂利道に沿い華頂山に向かって歩かせ、右に枯山水の白砂庭を鑑賞させ、左に三門を見上させ、次いで観音池へと進ませ、虚の枯山水風景から実の水を蓄えた観音池へと風景が変化したことを感じさせるようにしている。来客者に虚の実社会世界から、祈りに包まれた真実の世界へと入ったと感じさせる。そして禹門(うもん)を潜らせ渓流とその上に流れる風を包んだ樹木の中へと導く。渓流風景にて来客者の心を真心にて人と接する赤子の心へと戻らせ、最後に洞穴に潜り込ませるように茶室へ招き入れる。高度差がある庭なので、帰りは渓流に沿って下り、渓流水を蓄えた観音池を抜け、枯山水庭へと下らせることで、枯山水庭の流れが先ほどまで居た茶室傍らの渓流水であると感じさせるようにしている。枯川水は聖なる知恩院を通った東山の水で、法然上人の教えが加えられ、京都市内へと流れて行くと感じるようにしている。そして京都の街の上に神が宿る愛宕山がそびえている。木の門付近のマツの傍らにさりげなく井戸を配することで、渓流と観音池の水が地下水となり京都市内に流れて行っていることを感じさせるようにしている。知恩院HPの説明に「苑内には裏千家ゆかりの茶室「華麓庵」と当山第86世中村康隆猊下の白寿を記念して移築された茶室「白寿庵」があり、深い緑のなかで日本の心を表した名園にふさわしい風情を添えています。」と説明されていることから友禅苑は超一流の宗教家、茶道家、作庭家が心を込めて作り、維持されていることが読み取れる。友禅苑は日本芸術の神髄を見せ、日本文化のありようを提唱しているようにも感じる。一心に祈る浄土宗の本拠地に、宗教、芸術の最前線で活躍される方々が一心に作られた茶室、庭、観音像がある。結果、浄土宗の心、茶道の心、日本庭園の心が自然体で庭に刷り込まれたように感じる。祈りの観音池で赤子の心を持った法然上人を感じさせ、渓流風景で人の心を赤子の心にし、茶会にて自らがやらなければならないこと、革新すべきことを感じさせ、再び街へと戻らせる。そのような庭と茶室だと感じた。庭の一番奥、ひっそりと育つアセビ、カクレミノ、ツバキなどに囲まれた渓流傍の白寿庵、その苔面露地の迫力に圧倒された。