葛木御歳神社

三上山はイザナギ、イザナミを埋葬し神体山とした。同じく御歳山もスサノオの息子、御歳神を埋葬し神体山とした。御歳山の北側には御歳神を主祭神とする本殿がある。小さな神社だが全国の御歳神、大年神の総本社なのは、天皇家の祖先墳墓とした小さな山を、本殿を介し直接礼拝しているからだろう。御歳山は海抜211m程度、本殿の海抜は166m程度、高度差はそれほど大きくないが、御歳山はシイの大木、背の高いスギなどで覆われている。拝殿前から巨木を見上げることができるので、そびえ立つ神体山に見える。庭で見かけるズングリとした権現石のような山に天に向かい真っすぐに伸び、天を指す大木が育っているので、御歳山は天皇家祖先神である御歳神の姿そのもの、民と共に生きるが民と真に交わることがない天皇の姿そのものだ。この姿は易経「12天地否」天地交流せず閉塞、強大な直接統治、対外戦争、強気の外交にて中央集権国家を目指した天智天皇、それを完成させた天武天皇に重ね、天地交流せず閉塞した状況で天皇が実権を握るとどうなったかについてまとめてみた。①日本国民の安寧と繁栄を祖先神に祈られている天皇陛下のお姿をニュースで見ることが多いので、身近に親しく感じるが、行事、被災者への見舞い、視察などで、国民から天皇陛下に問いかけることは許されず、真に親しく交われる人は限られている。奈良のある神社のガイドから終戦直前の戦艦大和による海上特攻は、昭和天皇が「特攻は空だけか」と海軍に問いかけたので作戦立案され、実行されたと伺った。国民にとって天皇陛下のお言葉は絶対であり、お言葉につき従う以外に個々の日本国民に生存の道は無い。日本は二千年にわたりこの制度で成り立ち、日本国民のアイデンティティとなっている。天智天皇、天武天皇は天皇を中心とした中央集権国家を完成させた。両天皇以外、私が知る範囲で直接統治をされたのは白河上皇、明治天皇、昭和天皇に限られている。天皇による直接統治は明治、昭和に起きた諸外国との戦争と多数の死傷者を生み出すなどの弊害が多いので、平安時代は天皇に寄り添った藤原氏による摂関政治、鎌倉時代から江戸時代においては征夷大将軍に国政運営が委ねられた。日本の政治は権威と実権を分けるのが基本で、実権を握り直接統治をされた天智天皇、天武天皇、白河上皇、明治天皇、昭和天皇は時代の転換点に居られた。その歴史から日本が政治システムを転換するには民との親密度が低いが絶対的な権威を持つ天皇による直接統治が必要だと読める。天智天皇、天武天皇は日本を中央集権国家にした。白河上皇は武家政治への流れを作った。明治天皇は封建制度との決別を行った。昭和天皇はアメリカ追従政治への流れを作った。今、多くの政治家、官僚がアメリカになびいているのは昭和天皇が作った道を歩く以外に自らの生存余地がないからだ。多くの民衆は日本国を日本民族に取り戻してくれる強い男性天皇を求めている。これに対し女性天皇樹立を叫ぶ政治家や学者たちはアメリカに追従する現状維持を求める既得権益者だと見ることができる。②645年、中大兄皇子(天智天皇)は中臣鎌足(藤原鎌足)と談合し、母親の皇極天皇と兄の古人大兄皇子の御前で蘇我入鹿を殺害、クーデター乙巳の変を起こした。翌日、入鹿の父、蘇我蝦夷は自害した。その翌日、中大兄皇子は第35代、皇極天皇の同母弟、孝徳天皇を第36代として擁立し、自らは皇太子となり蘇我氏が進めていたグローバル政策と真逆の大化の改新と称する保守政策を始めた。これら一連の行動は皇子にしかできないことで、乙巳の変を策謀し中大兄皇子をそそのかした中臣鎌足の知恵が、中大兄皇子を通し人力の及ばぬ力となって発揮され、歴史の流れを変えた。③大化の改新に着手、土地を公のものとし天皇に帰属させた。唐の制度に学び元号、首都、律令制、租税制度をスタートさせた。既得権益者の土地を公のものとし、税収入が国庫に入る規則を定め執行し始めたので、多くの危ない事態に遭遇したことが容易に推測できる。国民に不満が生じないよう身分、地位、職責制度を整え、公平な税徴収、労務制度を整え封建制度樹立を進めた。これほどの大改革を開始できたのも、中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足(藤原鎌足)が謙虚に部下達に命令を発し、部下たちも謙虚に既得権益者を説得して回ったからだろう。④第36代、孝徳天皇の皇子となった実質の執政者、中大兄皇子は、655年に孝徳天皇が亡くなると母を再び第37代、斉明天皇とし二度目の天皇に即位させた。翌年、政敵となる恐れがある孝徳天皇の息子、有間皇子を処刑し、政敵となる恐れがある有力者を一掃した。これにて独裁政治体制を作り絶大なる権力を握り、強い外交が行える富を蓄積した。658年、659年に蝦夷征伐、660年に粛慎の討伐を行い、国土の明確化を図った。対抗する者がいない独裁執政者の国になった。⑤しかしながら独裁執政者は人であって神ではない。しばらくは絶大なる権力や富を保ち自らの大理想を実現することができても、情勢変化と共に理想と現実との差が生じる。往々に周囲の忠告が耳に入らなくなり、傲慢になり、より多くの権力や富を求め実力以上の事に手を広げ、行う必要がない事業に手を出してしまう。国際情勢に目を移すと644~645年、高句麗は唐軍の第一次侵攻を撃退した。649年から唐は高句麗を疲弊させる戦略へと転じた。疲弊した高句麗は唐と対抗するため百済と手を結んだ。放漫経営で疲弊していた百済は高句麗と共に新羅を攻めることで活路を得ようとした。高句麗と百済から攻められ続けられた新羅は唐と手を結び唐に百済を直接攻めるよう望んだ。660年、唐は海路で百済に軍を上陸させ新羅軍と共同で百済を攻め滅亡させた。唐軍が高句麗へ第二次侵攻のため去ると百済再興運動が勃発し、百済と新羅の戦いが再び始まる。形勢が不利になった百済は日本に派兵を求めて来た。661年、高句麗は唐軍の第二次侵攻をかろうじて撃退した。663年、日本・百済の連合軍は唐・新羅の連合軍と戦い白村江で大敗した。結果、多くの百済難民が日本に亡命した。高句麗は667~678年、唐軍の第三次侵攻で滅亡した。⑥661年、斉明天皇が崩御した後、中大兄皇子は大化の改新を推し進めるため即位せず、謙虚に皇子のまま執政を続けた。645年から672年までの中大兄皇子(第38代、天智天皇)執政期間中、5回も遣唐使を派遣している。唐が百済と戦う直前には遣唐使が拘留されることがあった。難破などトラブルに遭遇した。白村江の戦い後の関係改善外交を行った。中大兄皇子は、国内では大化の改新を推し進め成功を続けるも、百済出兵で大失敗、この大失敗を乗り越えたことで政権は実力を蓄え、強い国家へと変貌させることができた。⑦白村江の戦いで大敗したことで、664年、大宰府を守る水城が造られ、対馬・隠岐・筑紫などに防人を駐屯させた。667年、防衛を考え近江大津に都が移され、いくつか防衛城が築城された。唐・新羅連合軍の日本列島侵攻を防止する政権の意図が日本国内の隅々まで伝わり安定した政府を確立できた。670年、日本で最初の全国的な戸籍「庚午年籍」がまとめられた。⑧大海人皇子は兄、天智天皇の4名の娘を娶っている。内一人は第41代、持統天皇となり天武天皇の事業を引き継いだ。大海人皇子は妻、額田王を兄、天智天皇に譲っている。国政に比べれば小さな婚姻関係だが、大海人皇子はこの積み重ねによって天智天皇との関係を密にし、皇室内での地位を確固たるものとしたが故に、第40代天皇に即位でき、次の持統天皇の即位を実現できたと推測する。大海人皇子の能力は兄を越えていたが、活発な活動を控え、兄の指示を確実に実行し続け、兄の信頼を勝ち取ると共に、兄の地位を奪うようなそぶりを見せず、実力を蓄積し、協力者を増やし続けていたことが読み取れる。⑨672年、天智天皇が没すると、弟の大海人皇子と、天智天皇の息子、大友皇子(第39代、弘文天皇)との間で壬申の乱が起きた。大海人皇子が勝利し、即位し第40代、天武天皇となる。天武天皇は天智天皇の政策を引き継いだ。この勝利は、大海人皇子が長年行って来た謙虚な振る舞いの成果だと思う。大友皇子よりも大海人皇子を天皇と仰ぐ方が良いと多数の実力者が思ったからこそ勝ち得た勝利であり、「謙譲こそが君子への道」通りに君子となった。壬申の乱により強引な施政を行っていた天智天皇への不満も解消された。⑩673年、天武天皇が即位すると、後に持統天皇となる鸕野讃良皇女を皇后とし相談者とし、皇族にのみ要職を務めさせる皇親政治を行った。権力闘争が起きない絶対権力者による中央政権体制にて、安心、安定した国政を施した。このような組織に属する人々は伸び伸びと育つ。676年、日本初となる条坊制の藤原宮の建設を開始した。681年、日本初の体系的な法令、飛鳥浄御原令の編纂を始めた。古事記として完成する歴史編纂を始めさせた。683年頃、日本初の銭貨、富本銭を鋳造させた。684年、八色の姓を制定、新たな身分制度を作った。「大王」の称号を「天皇」とした。国名を「日本」としたと伝わる。⑪天武天皇は現在につながる日本人の宗教、神道と仏教の振興に努めた。地上に雷が轟くように天皇家の祖先を神と崇め、神社を建造し、天皇の神格化を行った。日本人が天皇崇拝するアイデンティティは天武天皇が完成させたと思う。⑫686年、天武天皇が崩御した。690年、持統天皇が即位し天武天皇の事業を完成させた。690年、全国的な戸籍の庚寅年籍を完成させ、692年、全国で班田収授法を施行させた。694年、完成した藤原京に都を移した。697年、孫の軽皇子を第42代、文武天皇に即位させた。701年、大宝律令を完成させ、翌年施行した。そして天皇の神格化を推し進めた。持統天皇によって天智天皇、天武天皇が推し進めた中央政権構想、法整備、租税制度、宗教政策が完成し、日本人の心が一つとなり繁栄を続ける体勢が完成した。702年、遣唐使が再開された。葛木御歳神社と御歳山の形を易経に当てはめると上記の通り天皇家の歴史、天皇の役割が読み取れる。現在の女性天皇擁立を叫ぶ政治家の言動から、天皇家に皇位継承者を選ぶ権利はなく、象徴天皇は真に日本民族の権威の頂点に立っておらず、天皇家は外国勢力にコントロールされている日本の支配層の管理下にあると読める。2018年3月、私はインドのマイソール宮殿を見学した。宮殿内の壁画に国王の軍隊が行進している姿、そして宮殿が画かれていた。壁画に画かれた当時のインドはイギリスの植民地時代、統治は国王が行い、宮殿のすぐ傍にイギリス軍の駐屯地があり、イギリス軍が国王をコントロールしていたことが一目瞭然に画かれていた。現在の日本の姿と全く同じ姿だったので、ショックを受けた。帰国後、多くの友人からインドはどうだったかと聞かれたが、ショックが大きすぎインドで見聞したことを喋る気になれず、見聞の一部を本ブログのインド欄で記事にするのみとした。自らのアイデンティティを守るインド人をうらやましく感じた。明治以降の日本は天皇崇拝という日本人のアイデンティティを外国勢力に利用され、日本が日本民族のものではなくなっており、優れた日本文化の発展が阻害されている。神道は天皇崇拝の必要性から国家管理となっているが、仏教は衰退を続け、儒教は消滅しつつある。同じ文化圏の隣国と仲たがいし続けていることは明らかにおかしい。日本を取り戻すには男系天皇が日本を日本民族に取り戻す号令を発するしか方法は無いと思う。日本が日本民族の手に戻れば隣国とのトラブルが消えるので、隣国もそれを望んでいるはずだ。