庭に向かって左側、池の護岸石が海岸の波打ち際のように踊っている。向かって右側、枯山水庭の長い石橋は龍が歩いているよう、とぐろを巻いた龍を表現した太い幹を地面に這わせた巨大マツがある。左に陰の池庭、右に陽の枯山水庭、その先には鑑賞者を招き入れる海がある。築山に登れば海を望めた庭だったので、海を敬拝する自然崇拝の聖地を表現した庭だった。徳島市HP説明文には「旧徳島城表御殿庭園は、1600年頃に徳島城表御殿に面して造られた回遊式庭園で、桃山様式をよく残している。庭園は枯山水庭と築山泉水庭からなり、徳島ならではの青石がふんだんに使われている。東側の堀から海水を引き入れ、潮の干満がわかる潮入り庭園であったことが大きな特徴。作庭は茶人・武将の上田宗箇であると伝えられている。」と説明されている。徳島城を築城した蜂須賀家政(1558年~1639年)は文禄の役・慶長の役に出陣し、1600年、関ヶ原の戦いで敗軍の将となった上田宗箇を雇い、徳島城表御殿庭園を作らせた。尚、上田宗箇(1563年~1650年)は文禄の役の際、名護屋城に詰めたが渡海していない。徳島市立徳島城博物館の大きな棟、庭園南の内側と外側の直線道を西に延長すると対馬、海神神社に到達するので、かつての表御殿は海神神社を遥拝する向きに建っていたはず。文禄の役・慶長の役で海運の重要性を熟知した蜂須賀家政と上田宗箇は表御殿内から海神神社を背に、鳴門海峡、紀淡海峡と紀伊水道を結ぶ海路を臨む庭を作り、海神神社の祭神だった神功皇后、応仁天皇に見守られながら目前の海路を見守る徳島藩の役割と意気込みを画いた。庭に荒海、人力や人智で及ばない龍を画き、大自然や神など人智や人力の及ばないことに出会ったら成り行きにまかせ、祈るしか解決方法が無いことを教えている。海が穏やかになるまで出航は控えるべき、病気にかかれば静養すべし、自らの力で解決できないことには手を出してはいけないこと、静観して待つことの重要性を教えている。この地は縄文時代前期まで海に囲まれていたので、城山周囲は海蝕痕を持ち、庭園を取り囲む石垣は沖縄で見られるような石組みになっているので、海から離れた今も海を身近に感じられる。前述したように白砂を敷いた枯山水庭と深く掘り込んだ心字池で陰陽を、踊るような石組み、多くの海石、多彩な色合いの石にて変化を、築山、借景の城山、三尊石、吉祥の亀島、峡谷、サツキの丸刈、マツ、ヒノキ、ウバメガシの玉散らし剪定にてリズムを、大きく丸刈り剪定したマツで山や森を、幹をくねらせたマツや長い石橋で龍を、多数のソテツとラクダの首のように育てたソテツで南国の雰囲気を、そしてクロガネモチ、モチノキ、ヒイラギ、ヤブツバキ、アセビ、モッコク、アカマツ、クロマツ、ゴヨウマツ、サツキ、イヌマキ、ウバメガシ、ツワブキなど江戸庭園樹木で樹木の美しさや風を見せている。庭の外の海とつながるように見せた白砂庭には灰色系統の小さな卵型の石を多数置いて洲浜に見せる部分があり、船着き場を連想させる細長い四角い平面の石が遥拝石のように置かれている。心字池の北側の築山上にはシラカシの大木数本、クスノキの巨木があるが、果たして江戸時代にこのような樹木を植えていたのか疑問に思った。クスノキの日陰にはヒノキの玉散らし、イトヒバ、そしてゴヨウマツの玉散らしなどがあるので、江戸時代には大木のシラカシ、クスノキはなく、軽快に剪定された樹木が中心だったように思った。踊るような石組みは阿波踊りのようでもあり、石々が庭から飛び出すような勢いがある。粉河寺庭園、名古屋城二の丸庭園に同様の石組みがあり、上田宗箇は最も石を使いこなした築庭家だと思った。もし表御殿が再建されれば庭の自然崇拝聖地の雰囲気が強調され、室内から庭に祈りを捧げることができるのにと思った。