水の庭
庭の外側に柳川城外堀がある。沖端川から城下に流入した水は外掘を通り肥沃となり下流の干拓地、そして有明海へと流れて行く。外堀に「どんこ船」がゆったりと柳川下りをしている。船頭が民謡を歌い観光客を楽しませる。その歌声が外堀外側の樹木群と対月館、旧伯爵邸に囲まれた庭に響きわたり、こちらまで楽しくなる。池にちりばめられた、たくさんの石と島は仙台藩松島の景観を模している。池を取り囲こんだ280本以上のマツの枝先が池の水面に向いているので、自ずと視線が池水に向かう。外堀の水を取り入れた流水なので爽やかだ。近くの有明海の潮汐(ちょうせき)を見ているような気にもなる。野鴨が冬の庭で遊んでいる。もとは大名庭園なので、藩主と藩民とが一体感を得るために見通しが良く、藩の最大事業であった干拓地が見える庭であったはず、略同じ方向に流れるように庭石を置いたシンプルなデザインなので借景庭園だったはず、よって当初は庭先に有明海までの干拓された水田を見わたせ、藩主と農民との目線が合うほどに親密感あふれる庭だったと思う。有明海の向こう36㎞西南の多良岳山頂(996m)、45㎞南南西の雲仙普賢岳山頂(1359m)を借景としていたはずだ。庭は柳川藩第3代藩主立花鑑虎(1642年~1702年あきとら)が1697年(元禄10年)約7,000坪の別邸(集景亭)を構えたことに始まる。鑑虎の母は藩の格が違い過ぎる仙台藩2代藩主伊達忠宗(1600年~1658年)の娘。父は第2代藩主忠茂(1612年~1675年ただしげ)で伊達騒動寛文事件(1660年~1671年)の際、伊達宗勝の相談に乗った。それらの関係で庭池に仙台藩松島の風景を画いたと推測した。1738年(元文3年)第5代藩主貞俶(1698年~1744年さだよし)が奥(藩主側室とその子息、女中の居住地)を現在地に移転させ、御花畠と命名した。此の際、庭も再整備したはずだ。明治期に屋敷建物が作り替えられたので庭も再再整備されたはずだ。何時、借景庭園ではなくなったのか判らないが、外堀の外側に樹木を育て、内に籠った庭としたのは、封建時代(全体主義)が終わり、徴兵制度の明治時代(個人主義)になってからだろう。「柳川御花」として料亭と旅館営業を開始した1950年(昭和25年)以降に池の手前側(邸宅側)護岸をコンクリート杭としたのだろう。借景庭園でなくなり、護岸にコンクリート杭を打ち込まれたことで大名庭園の風貌は少なくなったが、コンクリート杭が見えない邸宅大広間からは大名庭園の雰囲気が遺っている。柳川城は沖端川の水を取り入れ外堀に流す水が無ければ防衛が成り立たない。城下に広がる広い干拓地に多くの水を流し続けなければ収穫がない。有明海の潮汐を思わせる水を強調した庭なので、水のありがたさを第一に表現した庭だと断定できる。易経にて水を強調するこの庭を読み解くと、日照り続きで池の水位が下がると「5水天需」雨降るのをまつ。よくまつ者こそ、よき成果をあげることができる。しばらく雨が降らないからと言って騒ぎたてるなと戒める。庭いっぱいにマツを植えているのは雨をまつ語呂合わせから来たものだろう。恵みの雨が降り始めれば「6天水訴」降りだした雨を止めることなどできない。雨水を取り合う争いは争うこと自体、意味がない。勝っても負けても禍根を残すと教える。もし長期間雨降らず池の底が露出した時は「7地水師」非常事態となった。藩主自らが出て直接指揮を執る時が来たと告げる。
逆に雨が続き、苔面が綺麗になった時は「8水地比」潤うと自然と人が集まってくる。しかし最後に益を求めてやってくる者はよからぬ企みを抱いているので気をつけろ。少し豊かになったからと言って気を緩めるなと教える。江戸時代、多良岳、雲仙普賢岳を借景とし、有明海の変化が見て取れた時はスケールの大きな借景庭園だった。そのころは庭先に天空を受け止める景色が広がっていて「1乾為天」天の運行は健全にして尽きることなく永遠に力を発揮する。藩主は天に則って藩民の為に施政すべきことを見せた真の大名庭園だった。庭先に広がる干拓地は「2坤為地」干拓地は藩の母、干拓地によって藩が成り立っていることを見せつけていた。水田に落雷するほどの雷が鳴り響けば「3水雷屯」難儀なことがあれども苦闘し前進すべきだと告げてくれ、有明海に霧が出て借景山が見えない時は「4山水蒙」未熟で幼稚な段階には、学ぶことがたくさんあるはずだと自省を促した。池に映った気象の変化を楽しむだけの庭ではなく、藩主が庭に向かい思索するためのものだった。今、借景は無いがその雰囲気は遺されている。外堀外側の樹木群により借景は目隠しされたが、視線が池水に集中する水を楽しむ庭は封建時代が終わり、明治時代が来たことを喜んでいるようであり、神が降臨し池の水で遊んでいるように見える。どこか神社の池に似た爽やかさと緊張感とがある。明治期の改造で庭にあった遥拝は消されたようだが、東庭園のお池に架かる木造橋の向き、お池から松に囲まれた松濤園の池との間を結ぶ水路の向きは日光東照宮の方向となっている。日光東照宮と柳川城・当邸宅とを結ぶ線上に岡山城が掛かるので、日光東照宮、岡山城の方向から聖なる水が池に流れ込む形になっている。柳川城及び当邸宅には日光東照宮遥拝所があったことだろう。借景、遥拝が無くなってもこれほど美しい庭であり続ける江戸時代の芸術力に感嘆した。