西教寺(さいきょうじ)客殿庭園

神となった徳川家康が遊ぶ池庭

本堂、本坊、書院、客殿、及び東西方向の渡り廊下は(中国曲阜)孔子廟を遥拝する方向に建てられている。客殿の部屋の中から建屋に沿って見る客殿庭園は孔子廟と対話する庭となる。宗祖大師殿、唐門は北京紫禁城(故宮)乾清宮に向け建てられている。唐門を潜り宗祖大師殿に向かうことは(故宮)乾清宮に向けて進み礼拝することに通じる。清朝皇帝に祈りを届ける形としたのは徳川幕府の政策と関係あると思うが、醍醐寺と同様、スケールの大きな歴史秘密が隠されている気がする。当寺は明智光秀、豊臣秀吉、徳川家の寄進で復興したので明智光秀、徳川家康、天海と深い関係があると推測し、その観点で遥拝先を探った。本坊、本堂は東の琵琶湖を借景としている。建屋沿いにわずか一度ほど南方向 (ほとんど建屋沿い)に東を見て147㎞先に三河野田城がある。三河野田城は三方が原の戦い直後に武田信玄が最後に戦い落とした城で、武田信玄は城から聞こえる笛の音に聴き惚れていたら鉄砲射撃され、その傷が原因で死亡した伝説がある。本坊、本堂から借景の琵琶湖を眺めることはこの伝説を思い起こすことに通じる。武田信玄と徳川家康は親子関係という説があるが、親子関係でなくとも同じ祖先を持つ河内源氏なので、三方が原の戦いは武田信玄が徳川家康に野戦、城攻めを実演教授するため徳川家康軍勢を叩きのめしたもの、戦い直後、河内源氏政権樹立を徳川家康に託し武田信玄は消えた。本堂、本坊、書院、客殿、鐘楼は約1.5㎞南方向の「日吉東照宮」遥拝方向に建てられている。この遥拝線は日吉大社東本宮本殿を通過する。「日光東照宮」と延暦寺東塔を線で結ぶと当寺の書院北西を通過した。この遥拝線は関ヶ原戦場跡(徳川家康最後陣屋跡南200m地点)・当寺書院・延暦寺法然堂(徳川家康は浄土宗の熱心な信者だった)・延暦寺文殊楼・延暦寺大講堂を通過する。法然堂と関ヶ原戦場跡を通過する遥拝線上に当寺書院があるので、書院では常に徳川家康に思いを至らせよという意味が込められたと思う。「日光東照宮」と「(京都)圓光寺境内の東照宮」を線で結ぶと当寺の南側、天文堂付近・延暦寺西尊院堂近くを通過した。「上野東照宮」と延暦寺西塔釈迦堂を結ぶと当寺塔頭(禅明坊、聞明坊、禅林坊)を通過した。「上野東照宮」と上賀茂神社権殿を結ぶと当寺本堂を通過した。「上野東照宮」と備中国総社を線で結ぶと当寺南側の天文堂付近・延暦寺椿堂・上賀茂神社境内南端付近を通過した。「紀州東照宮」と竹生島宝厳寺を線で結ぶと当寺塔頭(禅智坊)の南側を通過した。これらから客殿庭園の池は行きかう徳川家康の霊が休息する意を持たせたと推測した。ちなみに「日光東照宮」と(宮崎県)高千穂神社を線で結ぶと坂本城本丸跡の明智塚近くを通過する。明智光秀は下剋上者とレッテルが貼られているが、大義のない下剋上者ならば遥拝線近くに明智塚など設けられるはずがない。当寺では明智光秀と一族の墓を祀っている。明智光秀は河内源氏政権樹立の大貢献者だ。「久能山東照宮」と当寺本堂を結んだ線を西に伸ばすと毛利輝元築城の倭城、釜山鎮支城跡(現 子城台公園の高台)と草梁倭館跡(龍頭山公園の高台)中間あたり(両高台は4.7㎞南北に離れていてその中間あたり)に到達した。「名古屋東照宮」が現在地に移転する以前、名古屋城三の丸のどこにあったのか判らなくなっているので、当寺との遥拝関係は判らないが、清和天皇水尾山陵と名古屋城本丸御殿を線で結ぶと上賀茂神社の神山、延暦寺根本中堂、「日吉東照宮」を通過する。「日吉東照宮」は西に清和天皇水尾山陵を東に名古屋城本丸御殿を遥拝していることからしても、「名古屋東照宮」も当寺と遥拝関連を持たせていたと思う。尚、現在の「名古屋東照宮」と愛宕神社黒門を線で結ぶと、当寺の境内を通過した。当寺書院と「名古屋東照宮」を結んだ線を更に東へ少し伸ばすと代々の尾張藩主の廟が置かれていた建中寺境内に到達する。現在の「名古屋東照宮」建屋は東に建中寺、西に当寺を遥拝する方向に建てられている。以上のように当寺は東照宮を盛り立てる祈りの役割を与えられていたことが読める。延暦寺の各聖地を起点として本寺に向け線を引き更に東へ伸ばしてみた。延暦寺根本中堂と多賀大社本殿を線で結ぶと当寺総門を通過した。延暦寺伝教大師御廟と多賀大社本殿を線で結ぶと当寺書院の北西側を通過した。イザナミ・イザナギが建設したと思える現代につながる日本の初代首都跡(多賀大社)と延暦寺中枢部との間に当寺がある。遥拝線や方角にこだわった天海僧正が当寺を重視しないはずがない。山崎の戦いは、天王山の占拠により勝敗が決まったと政治的宣伝された。その天王山山頂と当寺書院中心を線で結ぶと、豊臣秀吉と高台院に縁の深い方広寺境内や高台寺を通り、大谷祖廟(東大谷)、知恩院境内に囲まれた一心院、そして「南禅寺金地院東照宮」を貫き、南禅寺勅使門、永観堂弁天社、(京都)熊野若王子神社、樹下神社境内、延暦寺大乗院を通過した。この遥拝線を更に東北に伸ばすと小谷城山王丸跡付近に到達した。小谷城山王丸跡と天王山山頂を線で結ぶと当寺塔頭(徳乗坊・禅林坊・泰門庵)、永観堂阿弥陀堂、南禅寺僧堂、高台寺境内、豊国神社を通過した。この二つの遥拝線上には、織田信長、お市の方、浅井長政、そして娘たち、明智光秀、豊臣秀吉、徳川家康、戦国時代を終了させた人物に関わる寺社や遺跡がある。これら各寺社はこの遥拝線を意識し作られている。余談になるが、山崎の戦い明智光秀陣跡と当寺の明智光秀と一族の墓を線で結ぶと、(京都)妙法院の大書院を通過する。その大書院南側には豊臣秀吉が伏見城内から移築した庭がある。この遥拝線はすぐ近くの養源院も通過する。養源院には小堀遠州作の庭園がある。1571年、織田信長の比叡山焼き討ちの際に当寺も焼失した。比叡山焼き討ちからわずか3年後、近江国滋賀郡を統治した明智光秀により復興した。明智光秀は坂本城の陣屋を寄進して大本坊を再建し、坂本城の陣鐘を寄進し梵鐘を作り、坂本城の城門を寄進し総門を作った。比叡山延暦寺の復興開始は1582年(天正10年)明智光秀が亡くなった年だ。亡くなった明智光秀は当寺に祀られた。豊臣秀吉が亡くなったのは1598年、当寺の客殿はその年に伏見城から移築された。天海が北院の住職となり、徳川家康の参謀となったのはその翌年の1599年(慶長4年)。このように当寺及び延暦寺の復興年、明智光秀、天海の足跡を追いかけると明智光秀‐天海のラインはつながっている。1739年に落成した本堂の木材は紀州徳川家が寄進した。徳川吉宗(1684年~1751年)が将軍だった期間は1716年~1745年、明智光秀‐天海が当寺に込めた思いは徳川家に引き継がれている。宗祖大師殿に祀られている当寺を中興した真盛(1443年~1495年)は比叡山焼き討ちの85年前の1486年に入山し、持戒と念仏の布教を行った。戦国時代の始まり応仁の乱は1467年なので、戦国時代に支持された教えだったことが推測できる。「正しい生活を送るために守るべき規範」と「阿弥陀仏の名を一心に称えること」を説いた真盛は「法然」「親鸞」より約300年後の人。法然(1133年~1212年)は「専修念仏」、親鸞(1173年~1263年)は「悪人正機」。天台真盛宗は、浄土宗、浄土真宗の教義を天台宗に取り込み戦国時代の人々に、人の生き方を示したと読める。それが明智光秀、徳川家康、天海に気に入られたのだろう。客殿と延暦寺根本中堂を線で結ぶと真盛上人廟を通過する。小堀遠州作、客殿庭園の4本の石灯籠火袋の開口方向は両聖地を意識させる向きになっているので、庭は延暦寺根本中堂と真盛上人廟が発する霊気を客殿に導くために作られたことが読みとれる。庭正面の山裾は急斜面で、山の奥へ奥へと通じる階段道がある。真盛上人廟へ通じ、延暦寺根本中堂に通じているはずだ。庭中央に瓢箪型の池が配され、池の右側には高度差があまりない瀧があり、瀧口から池に注がれる清水が琴の音色を響かせている。池の左側、真盛上人廟の方向からも細い水がチョロチョロと池に流れ込んでいる。鑑賞者の注意を水音で真盛上人廟、比叡山延暦寺方向に振るテクニックが用いられている。縁側から庭に下りるところに沓脱石が据えてある。沓脱石の右端付近から見た四本の春日型石灯籠が特に引立っている。四本の石灯籠の灯り口を一つ一つ見ると、そのポイントに四本の石灯籠の光線を略一致させていることに気付く。四本の石灯籠は樹木にて白く浮かび上がるようにされている。一本目は池の手前、客殿側、庭の左側。二本目は向こう岸、庭の右側、出島部分の中央。三本目は向こう岸、庭の左側、庭と裏山の境付近。四本目は鑑賞位置から見るど真ん中、裏山の斜面の中にある。沓脱石と四本目の石灯籠を白線で結ぶと、その白線は一本目と二本目の中間、二本目と三本目との中間に真っ直ぐに伸びているよう、沓脱石と四本目の石灯籠の間に白線があるようなイメージを起こさせるよう、白っぽい石も配置されている。庭の緑が石々と石灯籠の白さを際立たせている。イメージ白線の先には真盛上人廟の一部が見える。更にその先には延暦寺根本中堂が有る。上述の遥拝線をイメージできるよう作庭したことが判る。沓脱石にて履物を履き、石灯籠に招かれながら飛び石を伝い池に向い、池に沿って歩き、石橋を渡り、向こう岸の通路に沿って山に入り、山の階段を登って真盛上人廟、延暦寺根本中堂へ行くことを庭が勧めている。沓脱石に置かれた履物を見せ、真盛上人廟、延暦寺根本中堂に参拝して来た住職に思いを馳せるようにしている。山の中の真盛上人廟を少し見せることで、真盛上人廟を強く意識させている。これら技法は当麻寺中之坊庭園で片桐石州が使ったと思った。池の周辺の石組み、裏山と池との間に設けた低い築山は大半が石組で構成されている。明るい石々は規律正しく並び、念仏を唱え続けているようにも感じる。客殿庭園北側の渡り廊下の先には穴太衆(あのうしゅう)による書院庭園がある。書院南側、客殿との間の四角い庭。禅寺の方丈庭園のような白砂と苔面の低い築山とからなる。手前の白砂には横筋だけで波が画かれていないので波静かな琵琶湖を見せる。真盛上人廟の方角から水に見立てた白砂による枯水が流れてきて、白砂で作った琵琶湖に清水が注がれているように見せている。明治初期作庭だが、江戸時代の技法を踏襲しているので、客殿庭園と連続性がある。平成元年に築庭された書院北側の裏書院庭園も美しい。比叡山から流れて来た水が池に流れ込むイメージで作られている。池水面は鏡面で周囲の風景を反射させている。池の護岸石は手前側に龍頭のように突出す石、上面が平たい石、ずんぐりとした石など、それら目立つ石々の間には小さい石を自然に置き護岸としているので落ち着く。池の中にはリンガ的表現の太い石が置かれていて原始宗教的な魅力が付与されている。庭の角には比較的大きな石を組んだ三尊石組みを発展させたような石組みがあり近代的だ。鏡面状の水面が天空を取り込みリンガ表現の池の中に立つ石との相乗効果で美しい。客殿庭園、書院庭園、裏書院庭園の池は共に琵琶湖を連想させるので、琵琶湖そのものもが神となった徳川家康の霊が遊ぶ大きな池だと心の中で連想させる。滋賀院門跡の記事で慈眼堂が多くの遥拝先を持っていることを書いたが、当寺は各地の東照宮と遥拝関係にある。多くの遥拝線が通過する。徳川幕府成立への道筋を作った明智光秀、徳川幕府を安泰にした天海、両名の深い思いが当寺に刻み込められている。