正法寺(八幡市しょうぼうじ)

尾張徳川家の心が伝わってくる

当寺には尾張徳川家初代、徳川義直(1601年~1650年)の母「お亀の方(相応院)」(1573年~1642年)の墓がある。徳川家康の側室「お亀の方」は石清水八幡宮の祀官家・田中氏の分家、(当寺)志水宗清の娘。名古屋「お亀の方(相応院)」菩提寺で墓があった「相応寺」。徳川義直の墓があり尾張徳川家藩主の廟が置かれている「建中寺」。そして当寺は共に浄土宗。これに対し尾張徳川家の菩提寺「定光寺」は臨済宗妙心寺派なので、浄土宗の寺に相応院と徳川義直の墓を建立することで熱心な浄土宗の信徒だった徳川家康とお亀の方を尊重したことが読める。1626年(寛永6年)頃、お亀の方の寄進により建立された唐門、大方丈、小方丈、書院、本堂は西教寺、醍醐寺の主建屋と同じく西北西の(中国曲阜)孔子廟を遥拝している。大方丈の上段の間には儒教の世界が描かれていた。旗本が藩主を見上げた背後に孔子廟が控える演出がされている。小方丈から建屋方向に沿って見る庭は内省庭となっている。これら建屋は北北東に(若狭)明通寺三重塔を、南南西に(高野山)金剛三昧院法堂を遥拝している。明通寺三重塔中心と金剛三昧院法堂中心を結んだ線は金閣寺境内、当寺本堂・大方丈庭園、(高野山)普門院庭園を通過する。ちなみに近代に新設された建屋はこれら遥拝先を無視している。主建屋は東南東方向に遥拝先は無いが、主建屋が明通寺三重塔と金剛三昧院法堂に向き遥拝し、且つ両者を結んだ線が大方丈庭園を通過しているので庭は佛の通り道となっている。大方丈庭園は田園地帯を借景とした庭だけではないので、借景の田園が無くなった今も、佛が立ち寄る庭のイメージが生きている。重森三玲の弟子、吉田清史氏はその遥拝線を生かし「阿弥陀三尊来迎の庭」を作った。重森三玲の庭石は軍人のように見えるが、こちらの庭石は僧侶が並んでいるように見せる重森三玲の発展型庭園だ。阿弥陀三尊が放つ光の表現が現代的で、波のようなツツジの大刈り込みが美しい。尚、金閣と以前記事にした(高野山)宝善院を線で結ぶと当寺の大方丈、小方丈を通過した。鐘楼は正長方形でない。北側の縁は東の三河野田城に、南側の縁は東の浜松城を指していた。大棟は北の若狭彦神社上社に向いていた。先日記事に上げた西山浄土宗(京都)楊谷寺の主建屋は東西の(滋賀県)日吉大社本殿と(九州最南端)佐多岬の御崎神社に向き、それぞれを遥拝していた。庭の亀島の亀頭石は日吉大社本殿に向き、尻尾側は御先神社を指し示す飛び石があった(A線)、南北には(亀岡)穴太寺本堂と当寺「お亀の方墓所」に向き、それぞれを遥拝し、庭の石橋がそれぞれに向いていた(B線)。A線とB線は建屋の中心付近でクロスし十字を切ったイメージが庭に付けられ、亀島には徳川家康とお亀の方を模した石が置かれていた。当寺方丈の裏には切り立った山裾を楽しむ書院庭園、そして崖面のような小方丈庭園がある。南北方向に細長い庭の中央には細長い池が配され二つの庭をつなげている。特筆すべきは石清水八幡宮中心と熊野本宮大斎原中心を結んだ線がこの書院庭園を通過していること。山裾上の方向性を持たせた石灯籠と池ほとりの小さな石灯籠を結んだ線はこの線に合わしたように見える(C線)。楊谷寺が当寺の「お亀の方墓所」を遥拝していたことから2基のマリア灯籠を結んだ線(D線)の先は、今どこにあったか判らなくなった名古屋市東区山口町「お亀の方(相応院)」菩提寺、相応寺の相応院墓跡に当たっていたのではないかと想像した。もしそうであれば楊谷寺と当寺の庭には「お亀の方墓所」遥拝、庭に十字を切るデザインの共通性がある。庭にはメリハリの効いた多数の小ぶりの石々が崖面に差し込まれたように置かれている。銀閣寺の茶室跡付近の山裾に差し込まれた石々や、(兵庫県)沼島庭園の石々の置き方を発展させた石の使い方をしているように見える。それらの石々は武家庭園の石にふさわしい黄色みを帯びた明るい灰白色の石で統一されている。石と石との間の土を固め苔面としている。現在に至っても変わることなく見せてくれる江戸時代の築庭力はすごい。果たして近代庭園が300年後の鑑賞に耐えられるのだろうか。「池に掛けてある計3本の白色系の石橋と、池の中に置いた池越えの為の長方形の石3本は、当地以外の場所から持ち込まれたものだが、それ以外の石はすべて当地の石です。」と説明を受けたので、当地の石清水八幡宮を強く意識させられる。書院居間(住職の間)の開口部は北側で、室内から山裾上の石灯籠と護岸石の上にチョコンと乗せられた小さな雪見石灯籠に注意が引かれる構成になっている。大きく四角な石灯籠は、庭の中央、切り立った山肌の上側、庭石の中で一番高い位置に据えられ、書院庭園の中心となっている。上述した石清水八幡宮中心と熊野本宮大斎原中心を結んだC線を強く意識させる。方丈居間は茶室で、通常床前が上座であるが、ここは上座に炉が切ってあり、上座に座る住職が下座の客に茶をふるまうようになっている。お点前する住職に遥拝線(C線)を強く意識させ、石清水八幡宮と熊野本宮大斎原が発する気を茶にすり込ませる設計だと理解した。池の護岸石上に頼りなさそうに置かれた雪見石灯籠は、庭の奥にどっしりと据えられた石灯籠をより存在感あるように力強く見せ、手前から奥へと視線を移させるようになっている。その吸引力に引き寄せられ方丈居間から庭に進み、庭に降りたつため沓脱石に足を掛けたら、池に反射する山裾上の石灯籠と手前側の雪見石灯籠の両方が見られるようになっている。夜、火が灯れば池に反射した両方の光が重なり一条の線となり遥拝線(C線)をより強く意識させるはずだ。山裾上の石灯籠の先に石清水八幡宮があるので礼拝すべきことを意識させられる。清和源氏の足利氏・今川氏・武田氏・徳川氏が氏神として崇敬した石清水八幡宮の祭神は、神功皇后、息子の応神天皇、そして宗像三女神(スサノオとアマテラスの娘たち)。計五神の内、四神が女性なのが常に死と隣り合わせの武家らしい。神功皇后は夫(仲哀天皇)が急死した後、子供(応神天皇)を妊娠したまま朝鮮半島に出兵し新羅を攻めた。しかし新羅は戦わずして降服した。新羅王と神功皇后の間で事前打ち合わせがされていたということだ。そして高句麗・百済を征伐した。これらからイザナギ、スサノオの子孫や神功皇后は新羅と深い関係にあったことが類推できる。異常に懐妊期間が長かったと言われているので、父親は未知の人という理解が普通の解釈だと思う。神功皇后が三韓征伐の後、畿内に帰るとき夫(仲哀天皇)の腹違いの息子たちが起こした反乱を平定した。これらのことから新羅王とイザナギ、スサノオ、応神天皇の子孫である河内源氏は同じ血流ではないかと勝手に解釈した。自分の家の墓地を崇拝するのは、自身に流れている血の源を崇拝するからであり、八幡神となった応神天皇を崇拝する清和源氏の足利氏・今川氏・武田氏・徳川氏は新羅王と同じ血流だと思った。書院庭園を見ると程よい大きさのマリア灯籠が池の左側にある。もう一本、先ほどのマリア灯籠と同じくらいの大きさのマリア灯籠が池の右側にある。これらの石灯籠は書院居間から見えない。山裾上の石灯籠と雪見型石灯籠を結んだ線はC線に一致させているはずだろうし、2基のマリア灯籠を結んだ線はD線に一致させているはずだろう。C線とD線はクロスしている。まるで十字を切っているように見せている。書院北西側の部屋は時間帯によって差し込む光の具合が大きく変化するように工夫されている。使うための部屋でなく、不祥事を起こした武士の切腹の間として南側の部屋で控える旗本達に自戒させるための部屋である。そこに五輪塔の水輪をくり抜いて作ったような蹲踞があり、観る者をギョッとさせる。細い水を池に落とす瀧が有り、その水音は山と建屋に反響し琴の音色に聞こえる。八幡には当寺以外に尾張徳川家と深い縁がある神応寺がある。慶長年間(1596~1615年)に建立された尾張国中島郡下津村(現・小牧市)正眼寺の末寺として当地に再興された曹洞宗の寺だ。正眼寺は織田家・豊臣家・尾張徳川家の庇護を受けている。石清水八幡宮に入り真言宗の僧侶となった松花堂昭乗(1582年~1639年)は尾張徳川家の為に多くの働きをした。1619年(元和5年)、徳川義直と近衛信尋を対面させるため奔走した。1626年(寛永3年)、徳川義直を席主とした茶会を小堀遠州とともに催した。近代において1607年(慶長12年)、豊臣秀頼によって石清水八幡宮境内に再建された八角堂が明治維新直後に撤去されることになった。その際、当寺住職が八角堂を買い取り急いで移転させ救った。名古屋地区で修復中の名古屋城二の丸庭園以外、江戸時代の有名な武家庭園が思いつかない。ここ尾張徳川家のプライベートな寺院では主要建屋と庭が今に伝わっている。廃仏毀釈や、昭和の戦争に明け暮れた時期に放火されることもなく引き継がれたのは、尾張徳川家の施政が当地で根付いていたこと、幾多の源氏の遥拝線に守られている証だと思った。