河内源氏の赤井直義(1570年~1653年)子孫の住宅跡。1610年(慶長15年)直義は藤堂高虎に仕え1000石を賜り足軽大将として大阪の役で活躍した。藤堂高虎は明智光秀の丹波攻めに参戦し赤井家が守っていた丹波を平定した縁がある。戦国時代が終了した後、敗れた側にいた河内源氏など名門の子孫が旗本、上級藩士に取り立てられた例は多い。長屋門は江戸時代末期頃の建屋、主屋など他の建屋は明治以降、茶室は昭和前期の建築となっている。長屋門は不穏な時代に入った江戸末期頃のもの、赤井餘三郎の役職が肝煎(きもいり)目付だったことから、江戸末期に赤井家が上級藩士の居住地区からここに移転し、周囲に住む下級武士、足軽、藩民の動静を観察し、指導したと推測した。長屋門と主屋の玄関は東向き、庭は主屋の南と北、主屋東南の土蔵と庭の間に茶室がある。客間からは南の主庭と、北の小さな庭を同時鑑賞でき、南北方向に風が通っている。主庭に石灯籠が6本、北庭に2本立っている。武家庭園らしく黄色、白灰色など明るい石が多用されている。茶室を建てた際、江戸末期庭の飛び石を調整し、いくつか石灯籠を立て、露地風になるよう樹木を育てたと見た。武家屋敷は遥拝先を持っているので長屋門の方向(南北方向)に沿って北に線を伸ばしてみると49.4㎞先に(琵琶湖沖島)厳島神社が、南に線を伸ばしてみると550m先に(愛宕神社境内)阿多古忍之社があった。厳島神社と阿多古忍之社(忍者神社)を結んだ線は長屋の中央を貫き伊賀上野城本丸広場を通過した。よって長屋は北に(沖島)厳島神社、伊賀上野城を、南に愛宕神社、阿多古忍之社を遥拝している。この神の通り道に略直角に交叉する神仏の通り道を探すと、約215㎞東に久能山東照宮が、300m西に広禅寺があり、両者を結んだ神仏の通り道が長屋を通過した。よって長屋は東に久能山東照宮、西に広禅寺を遥拝している。ちなみに西約1㎞先の桶子神社旧社地と久能山東照宮を結んだ神の通り道は当住宅の北隣宅を通過した。明治以降に建て替えられた主屋などはこれらの線に沿っていないので、遥拝を考慮せず敷地境界線に合わせ建て替えたのだろう。昭和になって置かれたと思う、りっぱな春日型石灯籠が庭の中央、低い築山上で庭の中心石となっている。その左に樹齢200~300年のモミが真っ直ぐに天に向かって伸び、更に左隣りにはクロマツが大きく育ち四方に葉を伸ばしている。茶室近くにはモッコク、イヌマキが植えられている。大きな春日型石灯籠の右に縁起木のクロガネモチが大きく育ち、更に右にスイリュウヒバが育っている。これら江戸庭園の定番木々が豊かさを感じさせてくれる。クロガネモチの傍らには築庭当初のものと思える小さな石灯籠が立ち、その後ろにはいくつかの立派な石が置かれている。茶室へ向かう飛び石沿いに亀石があり、ドウダンツツジが季節を感じさせる。茶室入り口付近のアセビが山奥に入ったことを感じさせる。江戸末期の当初の庭は簡素な借景庭園だったと思う。主屋から庭先の田園を見渡し、南の低い山々を大きく見せるよう山々に合わせて庭に石を置き、借景を遮らないよう樹木を育てたことが想像できる。赤井餘三郎目付が主屋縁側に立ち南を見て田で働く農民と目線を合わせ、農民と心の交流を行ったと想像する。昭和になり南側に多くの建屋が建ち借景が失われたので、茶室を新設し、大きな石灯籠を立て、飛び石を茶室方向へ向かうように並べ替え、樹木を大きく育て露地風に改めたのだろう。庭が尻切れに感じるのは伊賀市に寄贈され整備された際、北と南の庭の一部が削られたためで、深山の雰囲気が少し削がれ、現代風の軽い雰囲気となった。地面、低い築山、石灯籠、自然石、大木で単純に構成された庭だが、多くの木の主幹が垂直方向に伸び、石灯籠の垂直方向が強調され、上下方向に目線を動かせさせられるようになっている。伝統的な樹木と石灯籠で豊かさを感じる。飛び石をつたって茶室に向かう際に「目先の小さな問題に気を取られるな。物事は大きな木を観るように全体を見て判断しろ。樹木の先の天を観ろ。」と語りかけてくるような風流な中に緊張感がある。借景は失ったが、風を表現していた借景に代え、樹木と石灯籠で風を感じさせるようにしているので、当初の風と地を感じさせる雰囲気は維持されている。易経に当てはめると「20風地観(ふうちかん)観察、省察の道」がふさわしい。風が地面をなでるように藩主の命令を藩民に行きわたらせるのが目付の役目。そのために藩民に命令を仰ぎ見させ、心で観させる必要がある。目付は命令が藩民に行きわたったかどうかを観察し、必要に応じて指導を続ける。藩民の心に届かない命令では期待した成果を得ることができない。藩民が命令を心で理解し、無意識のうちに命令通りに行動するまで指導を続けてこそ有効な命令となる。自らを振り返ってみても命令に単に従っただけの仕事は、言われたことをただやっただけで、中途半端な成果しか出せなかった。やる気が起きない命令をこなすと体の調子がおかしくなった。命令は命令された者が心の底で理解でき、心の底で受け止めてこそ有効である。この庭の美しさは、命令は心に届くものでなければならず、命令は心で受け止めるべきことを表現しているからだと思った。