専行院

1615年(元和元年)、織田長益は所領3万石を三分割し、(五男)尚長に1万石を分知し柳本藩主とした。(四男)長政に味舌を含め1万石を分知し芝村(戒重)藩主とした。東南の山を越えれば (信長次男)信雄が初代藩主となった宇陀松山藩(2.8万石)があった。柳本藩と芝村藩は隣同士、宇陀松山藩も近距離にあった。織田家のもう一つの大名、信雄の四男、信良は離れた上野国小幡藩(後に天童藩として継続)初代藩主になった。1695年(元禄8年)宇陀松山藩は(5代藩主)信休の時に丹波柏原藩(2万石)へ移封を命じられ転出したが、1726年(享保11年)、宇陀松山藩織田家の分家出身者、信方は柳本藩織田家に養子に入り第7代藩主となり家督を相続した。当寺は柳本藩織田家菩提寺で、織田家墓所には整然と石碑が並んでいた。墓所に解説がないので、いずれの墓標が(7代藩主)信方か、いずれが(11代藩主)信陽か判らなかった。当地の自治会は(12代藩主)信成が崇神天皇陵の改修を行った際、農業用水の確保のため濠を拡張したことに感謝し、定期的に織田家子孫を招き報恩感謝法要を当寺で行っておられる。ここでは織田家を敬う伝統が息づいている。柳本藩陣屋跡(柳本小学校、黒塚古墳)及び当寺は崇神天皇陵のすぐ西にあるので多くの神の通り道がこの付近を通過する。崇神天皇陵を起点として(対馬)海神神社と結ぶと、柳本藩陣屋跡及び当寺-馬見丘陵公園-(羽曳野)応神天皇陵-(藤井寺)野中宮山古墳-(堺)仁徳天皇陵を通過する。崇神天皇陵を起点として(沖ノ島)宗像大社沖津宮を結ぶと(当地)伊射奈岐神社の鎮守の森-当寺-(羽曳野)日本武尊白鳥陵の濠-(堺)土師ニサンザイ古墳を通過する。当寺の本堂など建屋は東に崇神天皇陵を、西に(馬見丘陵公園)巣山古墳礼拝所-(羽曳野)墓山古墳-(対馬)和多都美神社を遥拝し、この神の通り道の中にある。比叡山延暦寺根本中堂と吉野神宮本殿を結ぶ神佛の通り道は東大寺四月堂-柳本藩陣屋跡(柳本小学校)-(桜井市)国津神社本殿を通過するが、比叡山延暦寺根本中堂と安部文珠院安部晴明堂を結ぶ佛の通り道は東大寺念仏堂-黒塚古墳-当寺本堂-芝村藩陣屋跡(織田小学校隣の)建勲神社境内を通過する。当寺本堂など建屋は北に比叡山延暦寺根本中堂、東大寺、黒塚古墳を、南に芝村藩陣屋跡、安部文珠院などこの佛の通り道にある寺などを遥拝している。更に、景行天皇陵拝所と(元伊勢)籠神社本殿を結ぶ神の通り道は当寺を通過する。三輪山と(元伊勢)皇大神社境内を結ぶ神の通り道もある。このように当寺は複数の神の通り道、南北の佛の通り道の交差点にあり、且つ建屋自体が多くの神佛を遥拝している。このように恵まれた神佛の通り道の中に織田家墓所があり、墓所の背後には崇神天皇陵、伊勢神宮外宮御正殿が控えている。墓参りと同時に崇神天皇陵、伊勢神宮外宮遥拝に通じる。なおこの遥拝線は霧山城(多気御所)跡付近、田丸城跡の田丸神社を通過するので墓参りは三瀬の変で信長、信雄親子が虐殺した北畠具教一族の供養にも通じている。ここに信雄血流の(7代藩主)信方、(11代藩主)信陽の墓があることの意義は大きいと思った。当寺本堂側から庭を見ると三輪山が借景となっている。現在は住宅が建ち借景を損ねているが、周囲が田園だった江戸時代は三輪山が神々しく見えたことが想像つく。池が塀の傍にあるので、視覚的に深い池と感じさせるようになっていて、三輪山を高く大きく見せる構図としたことが読める。耳成山の南側の池のように、神体山を聖なる山として見せるための池となっている。日本庭園の原点は神体山を聖なるものとして見せる池ではないかと思った。財政困難な中、11代が建設した柳本陣屋表向御殿を橿原神宮で見ることができ、12代が改修した崇神天皇陵の美しさを楽しむことができる。その崇神天皇陵の濠の傍からは二上山、金剛山、耳成山、畝傍山など神々が住む山を直接遥拝できるので、柳本藩は神の国の真っただ中にあったことが実感できる。徳川幕府は家康のために懸命に働いた織田長益の子孫に、神の国において日本古来の神々へ祈りを捧げ続けることを求めたのではないだろうか。