雪舟(1420年~1502年頃)より二回りほど年下の相阿弥が作庭したと伝わる。理由は不明だが本能寺の変があった1582年(天正10年)兵火で寺が全焼、1597年(慶長2年)再建された。大阪大空襲で伊達政宗が寄進した書院や茶室が焼失したが庭は残った。今は戦後建てられた(茶室)相應庵の露地として維持されている。庭石が2度も焼け、少なくとも2回以上、庭修復されているが、鶴島と亀島を合体させた築山部分は雪舟の庭に通じるものがあり、人間臭い室町庭園の雰囲気があるので相阿弥の作品は守られている。
本堂は標高2.6mの地に建っているが、庭面は標高1.4m、庭の外道路は標高1.3~1.2mと大阪市内でも特に低地にある庭だ。おそらく周囲にビルが建ち並ぶまで庭地面の排水性は極めて良く、書院や茶室の屋根から落下した雨水を枯河、枯池から地下に吸い込ませていたのだろう。周囲にビルが建ち並んだ結果、地下水脈が切られ排水能力が激減、雨が降ると水が溜まり美観を損ねるようになったので、枯河、枯池を埋めコンクリートを打ち込んだのではないだろうか。今は枯河、枯池跡のコンクリート面に、水色の小石を敷き詰めることでマンガ的な小川を画いている。超一流絵画に銭湯の壁絵を加えたようになっている。やはり一番の見どころは盛り上げた築山に亀島と鶴島を同居させているところ。亀島と鶴島の間が枯水の水源になっていて、豪快な枯瀧がある。しかし瀧壺はなく、いきなり静かな水が溜まる小池表現となっている。それに続き上述の近年修復したコンクリート面に画いた緩やかな流れ表現、近年の修復で連続性の無い枯山水庭になっている。鶴島はガッチリとした太く細長い石を組み立て、頂上に五輪塔風の石塔を建て、天を指し示し天と交信しているように見せている。亀島は築山の頂上に、天に向おうとする亀が這いあがったような豪快な作りとなっている。石の色は武家が使う黄色系の石で豪華であり、尖った石はなく豪快な中に優しさがある。築山に海岸で育つウバメガシを多く植えることで、亀が海亀であることを表現している。大阪湾に近い地なので大海を泳ぐ大亀が上陸して庭山に登ってきたことを示し、亀島と鶴島を築山に同居させ、天と交わる亀鶴が離れることの無い永遠の契を交わしていることを見せている。見た所、相阿弥の作品の三分の二以上が大切に守られている。この庭はおそらく大阪にある一番古い庭だろう。(河内長野市)金剛寺の庭は南北朝時代の建造物も現存するが庭は江戸時代の作品だ。(富田林市)龍泉寺の庭は江戸時代に大整備したものだ。 (能勢町)長杉寺、(大阪市)加賀屋新田会所跡、(東大阪市)鴻池新田会所跡は共に江戸時代作だ。(高槻市)普門寺の庭は室町時代作だが、当庭園より新しく半世紀ほど後に作られたものだ。大阪で一番古いこの庭は完全復元できる状態で保存されているので、近年の改修以前の写真があれば、コンクリートを剥がし、枯河、枯池を復活させ、枯池の底に水が溜まれば強制排水できるようにし、近年置いた庭石を排除すれば相阿弥の作品を完全復活できると見た。モッコク、キンモクセイ、ツツジ、ツバキ、ソテツ、ナンテン、ウバメガシ、モチノキなど大半の樹木が日本庭園の伝統樹であり、庭の雰囲気を維持する努力が続けられている。このような庭が大阪市内にあることが嬉しい。