七代目小川治兵衛の庭は平安神宮神苑、高瀬川二条苑、無鄰菴、桜鶴苑、楽々荘、慶沢園、仁和寺庭園の改造した部分を鑑賞しただけなので断言できないが、印象派絵画の技法を庭に取り入れ、変化する太陽光を地、沢、水、樹木に綺麗に当て、庭に日本女性のイメージを浮かび上がらせたと見た。それぞれの庭にモデルとなった芸妓(げいこ)や巫女などがいるのではないかとも思った。印象派のルノワール(1841年~1919年)は光の変化を感じさせる、陰を利用する、ブルーの点を散りばめるなどの技法で若い女性を生き写したように画き、モデルの心を浮かび上がらせた。印象派が開花した頃に活躍を始めた小川治兵衛(1860年~1933年)は印象派の影響、或いは印象派絵画が江戸日本絵に強く影響を受けたように、江戸日本絵に大きな影響を受け、印象派と同じ技法で、女性の慈しみの情愛、柔らかさ、執着心、怨念などを表現している。太陽光の変化で印象が変わる水、樹木、草、苔などを使い庭に女性の心を画いている。女性の外面にて女性美と心を画いたルノワール、女性の内面にて女性美と心を浮かび上がらせた小川治兵衛。表現の違いはあるが、共に若い女性の憂い、気品を漂わせ、息を止めさせる美しさがある。両者のルーツは同じだ。無鄰菴、桜鶴苑は変化する太陽光を渓流、芝面、苔面に浴びせることで気配りのきいた女性を画いている。高瀬川二条苑は高瀬川の源流を浅瀬にし、透き通った流水に太陽光を十二分に当て初々しい一途な少女を画いている。平安神宮神苑は深く掘り込んだ渓流を樹木の陰の中に静め熟女の怨念や日陰の女を画いている。楽々荘は巫女神舞を画いている。そして樹木や花の匂いが妖艶な雰囲気を盛り立てている。江戸時代の庭が神を呼び寄せる庭だとすれば、小川治兵衛の庭は美女の精霊を呼び寄せる庭。近代日本庭園の流れは小川治兵衛によって作り出された。庭は東山を借景にし、東山から水が流れて来たように見せている。樹木の陰の中にある瀧から庭に水が流れ込み、広い浅瀬を通り、狭い渓流を通って鴨川へと流れて行く。瀧周辺は樹木の陰に沈んだ苔面。広い浅瀬から母屋までは芝面や水面に十分に太陽光が降り注いでいる。陰と陽とを明確に区別している。芝面に多くの大きな神の着座石を配している。ここ第三の無鄰菴は山縣有朋(1838~1922年)の別邸で、1894年(明治27年)造営に着手、1896年(明治29年)に完成した。日清戦争(1894~1895年)時に築庭されている。明治の庭は巨大な石灯籠を置くものが多いが、この庭は石碑近くに春日灯籠が一本、母屋や茶室近くに小さな石灯籠を置くのみで落ち着く。サツキの丸刈りを芝面に貼りつくほどに低く刈り込み、水の流れを曲水のように見せ、芝面の築山をなだらかな形状にし、軽い律動を感じるようになっている。三段の瀧や、瓢箪型の浅瀬、母屋近くの瀬落ちなどで水音を感じ、雨天には広い水面で雨粒に音楽を奏でさせる。亀島、鶴島を設けない垢抜けした近代庭だが、江戸時代の庭師たちが活躍していた時期なので、東山を美しく見せるため単純構成とし、瀧で陰を、浅瀬や芝面で陽を表現し、陰陽を明確に分け深みを持たせ、神の着座石で神を意識させるよう仕上げている。