吉備中山のほぼ中央に盛土し作られた中山茶臼山古墳は宮内庁が吉備津彦命の墓と治定している。山の南は瀬戸内海の吉備の穴海に接していたので、江戸初期まで遥拝所背後には瀬戸内海航路が控え、迫力ある古墳とその遥拝所が航路から目立ち、当地や海上を行き交う人々に大和政権に大貢献したキビツヒコが語り続けられていたことが推測できた。キビツヒコは281歳で亡くなったと伝わる。当時は1年を2年と数えていたと言われ、二分の一しても140歳と長すぎるので、複数の血縁実力者がキビツヒコ名を継承していたのだろう。吉備津神社、吉備津彦神社の威容から古墳時代から現在に至るまで、キビツヒコの権威が岡山市で際立っていることが実感できた。中山茶臼山古墳の西2.7㎞には温羅との戦闘でキビツヒコが楯を設置した地と伝わる楯築遺跡がある。主墳の頂上には埋設された木棺を取り囲むように巨石5個が立てられ、その周囲に多くの石が配され、キビツヒコの戦闘伝説が画かれている。江戸時代、伝説を記念し、石を組み芸術品にし、観光名所としたものがあちこちに見られるので、古墳頂上の石組みは古墳と関係ない江戸時代の芸術作品だと思った。中山茶臼山古墳の西北500~600mの吉備津彦神社HPには『キビツヒコの夢に温羅があらわれ、こう言った。「私の妻、阿曽媛に御竈殿の火を炊かせよ。釜は幸福が訪れるなら豊かに鳴りひびき、わざわいが訪れるなら、荒々しく鳴るだろう。」それから、御竈殿では毎年、その年が良い年かどうかを占うことになったという。』と説明されている。つまりは吉備津神社が創設されるずっと以前から御竈殿が存在し、古墳時代の占い儀式が今に伝えられていると言うことだろう。中山茶臼山古墳の北側には鏡石、八畳岩など古墳時代前の自然崇拝祭祀跡がある。八畳岩は吉備津神社の奥宮であり、八畳岩とその周囲の岩、樹木は日本庭園が理想とする神々しさがあった。