楯築遺跡

石組み一番奥に太陽光を反射する鏡面を持つ足裏のような形をした3号立石があり、鏡面は南に向いている。その左には鏡面を東北に向ける4号立石があり、朝陽を反射させ3号立石の鏡面を照らすようになっている。3号立石の右側には剣のような、或いは男根にも見える1号立石があり、1号、3号、4号立石で囲まれた円形空間は神楽の舞台のようになっている。3号立石と4号立石の鏡面にて神楽の舞台に見える地面は明るく輝いている。1号立石に寄り添うような石組みで作られた社がある。これら1号、3号、4号立石の石組みに向かって右側には神が腰掛ける椅子のような形をした2号立石があり、石組み手前には男根のような5号立石がある。5号立石の左側には表面が丸い石が二つ埋め込まれ、丸い石の一つには割れ目がある。この二つの石は陰を表現しているように見える。5号立石を陽、丸い石を陰と見れば、神楽の舞台のような聖なる地に向かい、右に陽の5号立石が、左に陰を表現する丸い石があり、神々を招き入れる陰陽配置となっている。キビツヒコが温羅との戦争で楯を設置した伝説地にある当古墳は戦争前に築かれたものか、戦争後に築かれたものか不明であるが、古墳の中心を取り囲むように立石が配され、その周囲に多くの石を配している。石組みは楯のような鏡石を目立つように置くことで、キビツヒコの戦闘伝説を連想させ、陰陽表現の神の入口があり、戦争に関係する神となった人々の霊を1号、3号、4号立石で囲まれた聖なる場所に招き入れるようになっている。聖なる場所は神楽の舞台のようで、神が入る社がある。この周到な配置から、江戸時代の石組みだと推測した。理由として、吉備の中山の山中にある鏡石表面には模様のような多くの鑿跡が残る黒緑の石に対し、こちらの3号、4号立石の鏡面は江戸庭園でよく見る綺麗で美しい色と面をしていること。1号、3号、4号の立石で囲まれた聖なる地に向かい右に陽の5号立石を、左に陰を表現する丸い石をしているが、その配置が陰陽の定位置にある。儒教思想が日本に入って来たのは仏教公伝と同時期か、それ以降であること。神社の庭はそれほど古いものは無く、そこに鏡石と劔石を置いていることがあるが、そもそも本格的な庭が作り始められたのは飛鳥時代以降、中国の庭を真似て作り始めたと推測されることから、庭石のような石組が古墳時代に有ったとは思えないこと。他の古墳でこのような祭祀の石組を見たことがないこと。それらのことから、洗練された美しさがある5本の立石を中心とした石組みが自然崇拝、古墳崇拝の時代に作られたものではないと思った。