後楽園

この庭は一面の水田だったが、岡山藩の財政難で順次、芝生に植え替えられた。縮小された水田越しに藩主の居間、延養亭を望むと、普通の水田風景の中にある屋敷であり、領民と領主が一体になることを目的とした大名庭園だったことが見て取れる。ここで藩主は藩士らと共に能や月見を楽しみ、格式張らない茶会を行い、騎馬や弓の技を競わせたことが偲ばれる。藩主と藩士が一体感を得るための庭だ。そのような庭なので、岡山市民から愛され続けているのだろう。百姓一揆が頻発した隣の津山藩と分割統治された美作と違い、被差別民に対し温情で接した岡山藩に百姓一揆はなかった。藩主が率先して倹約を行い米の増産、塩の安定生産を続けた健全経営だった。旧岡山藩領内で多数の江戸庭園が見学できることからしても良き施政だったことがうかがえる。延養亭、鶴鳴館の東に沢の池があり、屋敷から日の出、月の出が楽しめる。庭構造は単純で借景の操山を引き立てている。南に花葉の池があり、屋敷側から池に反射する月を楽しめるようになっている。沢の池の北側、慈眼堂付近から南を見ると岡山城天守閣が借景となっている。144,000㎡(約43,600坪)の広い庭だが、旭川の中州にあり、庭周囲の高木樹木で作られた厚い壁と旭川で街から隔離され、庭園内のほとんどの所から広い庭を一望でき、借景の操山が遠いので、空が広く高く、実際以上に大きな庭だと感じる。唯心山に登れば西北方向に街が見えるが、それ以外の場所からは街がほとんど見えない。庭の外が望める唯心山は藩財政が苦しくなり園内の水田を縮小し始めた頃に作られているので、庭の外で働く農民と心の交流をするため築山したと読める。封建時代の領主は威厳を持って領民に接するが、同じ人間である領民と心の交流を心がけていたことが読める。延養亭、鶴鳴館、流店は西の備中国総社宮総社を遥拝している。延養亭の前に東西方向へ伸びる道も備中国総社宮総社を指し示している。流店を貫く水路は備中国総社宮を指し示している。岡山城不明門は備中国総社宮総社に門を開けている。岡山城天守閣は東の(奈良)石上神宮本殿を遥拝している。このように後楽園と岡山城で岡山を作った神々を祀る石上神宮と備中国総社宮に礼拝する形となっている。備中国総社宮総社と石上神宮本殿を結んだ線は、後楽園の約200m北を通過し、池田綱政が1666年(寛文6年)に作った大多羅寄宮(おおだらよせみや)跡を通過する。吉備津彦神社本殿と(奈良)岡宮天皇陵を結んだ線は慈眼堂背後の鎮守の森を通過する。吉備津彦神社元宮盤座と(奈良)天香山神社本殿を結んだ線は延養亭、沢の池、新殿を通過する。吉備津神社本殿と大神神社拝殿を結んだ線は岡山城天守閣を通過する。吉備津神社本殿と(奈良)崇神天皇陵を結んだ線は花交の池を通過する。吉備津神社本殿と(奈良)大和神社を結んだ線は唯心山背後の林を通過する。吉備津神社本殿と(奈良)西乗鞍古墳を結んだ線は延養亭、沢の池を通過する。吉備津神社本殿と(奈良)石上神宮本殿を結んだ線は鶴鳴館、沢の池を通過する。このように吉備津神社のある吉備の中山から岡山城、後楽園を望むことは(奈良)山辺道に連なる上述の聖地、及び上述以外の多くの古墳、神社を遥拝することに通じており、岡山城と後楽園は(奈良)山辺道沿いに住む神々と吉備津神社、吉備津彦神社がある吉備の中山に住む神々が往来途中に降臨する場となっている。威厳ある鶴鳴館、延養亭の前を通り花葉の池、栄唱橋、大立石を見て、こんもりとした山の中に入ると茂松庵に至る。茂松庵は躙り口のない茶室で、マツが庵と一体になって天に向かって伸びている。サツキの丸刈りがいくつかある。庵の東北に腰をかがめないで使える蹲踞があり、蹲踞を囲むアセビ、カエデの枝が庵に向かって伸びている。夏はカエデの葉が太陽光を遮り庵に涼感を付与し、冬はアセビに降り注ぐ太陽光が小さな白い花を可憐に見せる。その外側には多数のナギが植えられている。露地の飛び石は大きな石が用いられ、沓脱石も大きい。先ほど見た大立石と重なる豪快な茶室だ。スギ、クスノキ、ナギ、スダジイなどが神の降臨を感じさせ、アセビが山深い地にいる雰囲気を作っている。大木群がしっかりと日陰を作り、アオキが鮮やかな緑色の葉を見せ、たくさんのカクレミノが育っている。鶴鳴館、延養亭、天守閣、廊下門は約32km北にある浄土宗特別寺院、美作誕生寺の本堂(御影堂)を遥拝している。その線の約8.8㎞地点付近には金山山頂がある。天守閣など主要建屋は美作誕生寺を遥拝しているが、岡山城下馬橋は津山城天守閣を指差す方向に架けられ、不明門に登る南から北へ登る階段も津山城天守閣に向かっている。推測だが、江戸時代、金山山頂付近に狼煙台が設置されていて、天守閣は津山藩の動静を受信するアンテナだったのではないだろうか。岡山藩池田家31.5万石、鳥取藩池田家32万石、池田家にすれば津山藩が池田家に編入されれば、北に日本海、南に瀬戸内海が接する京都、大阪にそれほど遠くない交通の要所が池田家の領地となる。津山藩森家18.65万石(後に津山藩松平家10万石)を加えれば、加賀藩前田家100万石、薩摩藩島津家90万石に近い、仙台藩伊達家62万石以上の大大名となる。82万石あれば旧帝国陸軍3~4個師団=1個軍団相当の軍事力を備えることも不可能でない。それを目標としていたのではないかと深読みしたくなる。天守閣に登って後楽園を見ると人々の様子が身近に感じる。石鳥居が白く浮かび上がっているので自然と視線が石鳥居とその先の金山に向かう。天守閣中心と美作誕生寺本殿を結ぶ線は石鳥居近くの慈眼堂を通っている。鶴鳴館と沢の池に挟まれた芝生中で交差する少し湾曲している直線道の内、一本は西北方向に(蒜山)中蒜山山頂を指し示し、東南方向に高松城を略指し示している。もう一本の直線道は東北方向に豊岡城跡、西南方向の宇和島城を略指し示している。慈眼堂は鳥取藩主池田家墓所を遥拝しているように見える。慈眼堂で礼拝することは鳥取藩主の墓を拝むことにつなげたと思う。由加神社の社と参道は鳥取と兵庫をまたぐ牛ケ峰山(うしがみねさん)山頂付近を遥拝しているように見える。牛ケ峰山の山頂付近では牛ケ峰蔵王権現を祀っていた。山頂近くはブナ林となっている。ここ由加神社付近の落葉高木は巨木なので葉が良く見えず確定しづらいが幹の樹皮からブナに見える。よって牛ヶ峰山の山頂近くの風景を切り取ってきたと推測した。池田綱政の父、光政は因幡鳥取藩主から備前岡山藩主に国替えとなった。父の面影を追い、由加神社にて牛ケ峰山山頂を偲べるようにし、慈眼堂と由加神社で鳥取藩を思い祈る場としたのではないだろうか。広い庭園を生かしウメ林、サクラ林、茶畑風景を作っている。花交の池は深く掘り込まれているので瀧が大きな音を立て、こだましている。排水口も同様に太い水音を立てている。茶祖堂から花交の池の瀧を見ると樹皮がまだらにはね落ちたカゴノキの大木が目を引くようになっている。後楽園は天(青空)、山(繰山或いは天守閣)、地(芝面と築山)、沢(庭池)を整えて見せているので力強い。多くの神の通り道にあり神が遊ぶ庭となっている。大名庭園らしく藩主と藩士、領民との心の交流を主目的としたことが判り易く見て取れる。1687年(貞享4年)に着工し1700年(元禄13年)に完成した庭は、手を加えられてはいるが、明るくのびやかな元禄文化の匂いを感じられる。