織田信長の躍進(6)
1568年(永禄11年)若狭武田氏は越前朝倉氏の支配下となった。織田信長は南伊勢攻略の翌年1570年(永禄13年4月)徳川家康、松永久秀、三好義継、池田勝正と連合し3万の軍勢で(朽木経由)若狭に侵攻した。4月25日、金ヶ崎城と尾根伝いにつながる天筒山城を攻め当日落とし、翌日、金ヶ崎城を落とし戦闘を終えた。敦賀で一乗谷方面への侵攻準備中、浅井長政が裏切り越前朝倉氏と織田軍を挟み撃ちすべく軍を動かしていることを知り、慌て近江朽木越えで京都に撤退する。殿(しんがり)は池田勝正、明智光秀、木下秀吉。殿軍(3千以上)は金ヶ崎城に大軍がいるように見せかけ、挟み撃ちしてくる軍を引き付け信長本軍の退却を助けた。信長軍の退却路にある浅井長政に従属していた(朽木谷領主)朽木元綱を(2年前、信長の同盟となり金ヶ崎の戦いに参戦した)松永久秀が説得し、退却路を確保した。信長軍に公家の日野輝資・飛鳥井雅敦が随行していたので、若狭侵攻の大義名分は足利義昭将軍の甥(国主の)武田元明を朝倉義景の下から取返し、若狭武田氏を再興させることだったようだが、織田信長にとって思いもかけない浅井長政の裏切りで、自身が殺害される寸前に追い込まれた。信長は自身を落とし込んだのが浅井長政だけでなく、一緒に参軍した近畿の武将たち三好義継、池田勝正、松永久秀の可能性も疑ったと思う。3年後の1573年(天正元年)三好義継は織田軍に攻められ(若江城の戦いで)自害している。同じころ池田勝正は元部下で織田家家臣になった荒木村重に原田城から追い出され高野山に追放されている。7年後の1577年(天正5年)松永久秀は織田信忠軍に攻められ信貴山城で自害している。海に面した金ヶ崎城と尾根続きの天筒山城は敵を城内に引き入れ敵殲滅する山城なので、二つの城を合わせても3万の軍勢が籠れる城ではない。信長の決断が遅ければ敦賀湾と山に囲まれた敦賀平野に3万の軍勢が閉じ込められ、織田信長軍が大敗北した可能性がある。金ヶ崎城の戦いまで信長は多くの調略、策略で近隣諸国を領地としてきたが、この戦では逆に嵌められた。これ以降、信長は更に神経質に人を疑うようになったはずで、わずか12年後、信長が本能寺の変で明智光秀に嵌められ忠臣、森可成の息子たちと共に簡単に命を失うものだろうか。私は信長が朽木経由で京都へ逃げ帰った際、(朽木)興聖寺(旧秀隣寺)で宿泊、もしくは休憩したのではないかと思っている。旧秀隣寺庭園には信長の気持が込められたのではないかと思える庭石があり、中の島で光を放っている。用心深い信長なので、朽木まで或いは京都の近くまでは大軍と共にあり、安全圏に入った後、政治的演出として10名程だけを従え京都入りしたのではないだろうか。