朝倉館跡庭園

勝者の織田信長の庭は安土城近くの松尾神社庭園、岐阜城の発掘庭園だけだが、敗者の朝倉義景には四庭園(朝倉館跡庭園・南陽寺跡庭園・湯殿跡庭園・諏訪館跡庭園)を見ることができる。信長が一乗谷を全焼させた後、交通不便な地なので埋められ田畑となり、そのままの姿で保存された。何よりも江戸時代に手を加えられることのなかった北畠氏館跡庭園、松尾神社庭園、岐阜城の発掘庭園と同じくここ4庭園も戦国時代の空気が流れている。「朝倉(義景)館跡庭園」「南陽寺跡庭園」「諏訪館跡庭園」は朝倉義景(1533年~1573年)が自ら指図したと伝承されている。「湯殿跡庭園」は義景の父(朝倉孝景1493年~1548年)の時代に朝倉氏に支援を求めて来た細川高国(1484年~1531年)が築庭したと推測されている。四庭園に共通するのは一乗谷を貫く川の流れ、一乗谷城から流れてきたせせらぎの音があちこちに反響し、水音がひんやりとした空気を通い体に伝わってくること。ここは大雪が降り、寒くなる地帯、音は地表が冷えるほどにより通るので、庭が一番輝くのは雪景色の中、地表が冷える極寒日だと思う。大雪の後、大木や屋根から落ちる雪の音、木々の幹の間をすり抜ける冷風の音も良いかも知れない。梅雨の気温の低い日、せせらぎと池に落ちる雨粒の音の重なり合いも良いかも知れない。このように四庭園は雪、雨、風など厳しい自然を庭に取り込んでいるが、共に屋敷の東南から南方向にあり、庭を通し東南の太陽光が屋敷内に入るようにしている。朝倉義景は歌道・和歌・連歌・猿楽・作庭・絵画・茶道などを好んだ。1567年~1568年(永禄10年~11年)足利義昭を迎え入れ、元服させるなど厚くもてなした。朝倉館跡庭園は義昭を喜ばせるために作ったとも伝わっている。(福井県勝山市)平泉山白山神社御本殿を起点とし、(対馬)海神神社本殿と結ぶ神の通り道は(一乗谷)中の御殿跡を通過する。(対馬)和多都美神社と結ぶ神の通り道は(一乗谷)城跡の北-上城戸跡の南を通過する。(織田氏発祥の地)劔神社本殿と結ぶ神の通り道は(一乗谷)小見放城跡-南陽寺跡庭園の北にある瓜割聖水の南を通過する。朝倉館跡の多くの建屋は西南の(淡路島)伊弉諾神宮を遥拝する向きに、東南の(浜松)秋葉山本宮秋葉山神社上社を遥拝する向きに建てられていた。朝倉館建屋内から建屋に沿って西南を見ると伊弉諾神宮が、建屋に沿って東南を見ると秋葉山本宮が遥拝できるが、その中間方向に伊吹山頂上がある。よって朝倉館跡庭園は(神体山)伊吹山と対話する庭として作ったのだと推測した。足利義昭の御所跡、安養寺跡の北緯は35度59分29秒、東経は136度17分28秒で、この北緯には韓国桐華寺(北緯35度59分 35秒)と諏訪大社上社本宮(北緯35度59分53.37秒)がある。同一東経上には多賀大社本殿(東経136度17分28秒)、百済寺(東経136度17分19.8秒)がある。これら聖地の北緯と東経が御所跡で交叉している。多賀大社はイザナギとイザナミを祭る。韓国桐華寺はイザナギの息子スサノオが新羅に渡り訪問したと思われる聖地。諏訪大社はスサノオの子孫、オオクニヌシの息子タケミナカタを祭る。足利氏は河内源氏の出身なので、祭神すべてが足利氏の祖先だ。これらを意識して御所を安養寺に設定したと読んだ。これほど義昭を大切にしていたのに、朝倉義景は義昭の入洛(じゅらく)を直接助けず、越前朝倉氏軍2千にて義昭を護衛し岐阜城の信長まで見送り間接的に入洛を助けた。大きく歴史を観ると義景は信長のために働き滅びたようなところがある。歴史の表に出ない力で朝倉氏が滅亡したのではないだろうか。庭に目を移すと、庭右側の借景山と形を合わせた切り立つ築山は対話面となっている。上述したように伊吹山と対話するための築山だ。築山の左側から斜めに線を下ろして来たような水路の水が瀧を通し勢いある水音を立てて池に流れ込んでくる。まるで巫女が舞いながら鈴を鳴らしているような水音で、神を呼んでいる。ずんぐりとした庭の中心石は神を宿らせる石だ。その周りにたくさんの神の着座石がある。神が宿る中心石を取り囲むように降臨した神々が座り、神々が歓談しているかのように見せている。池をはさんで中心石を見上げる手前側の小さな立石が庭の鑑賞者を代表しているように見える。池の水深は極めて浅く清水が浸っている程度で清々しい。ツツジ、サツキ、ツバキが花を添えるようになっている。神々が遊ぶ爽やかな庭だ。