義景館跡庭園、南陽寺跡庭園と同じく神の降臨を促す庭となっている。建屋内から庭を楽しむだけでなく、神が降臨する庭を回遊することで、神と共に過ごせるようになっている。池手前に礼拝石が、池対岸の瀧の傍に庭の中心石(瀧副石としては日本最大)がそびえている。グーグル航空地図で礼拝石と中心石(瀧副石)の位置関係が判別できないので断定できないが、多賀大社、伊吹山、伊勢神宮、熱田神宮のいずれかを遥拝するために礼拝石と中心石を設けたか、或いは池手前のそれぞれの石から中心石を見て、各聖地を遥拝するようにしたのだろう。1847年(弘化4年)その中心石に朝倉家菩提寺、心月寺(十八世)月泉和尚の筆による(心月寺を創建した5代当主)教景、(朝倉氏を戦国大名にした9代当主)貞景、(一乗谷を繁栄させた10代当主)孝景の法名が刻まれた。(11代最後の当主)義景の側室、少将の館跡庭園の中心石に、幕末になぜ教景、貞景、孝景の法名を刻み、3名を神格化させたのか判らないが、遥拝と同時に3名を敬うことが庭に付け加えられた。瀧副石に向かって左に段差の大きい水落石が階段状に積み上げられ、水音を上げている。中心石の裾から半島が池に突き出し、半島の形に合わせ池も湾曲させている。中心石の左に大きくずんぐりとした石が、右にも左より少し小さいがずんぐりとした石が置かれ三尊石組となっている。池に架かる石橋、池の水を排出するための石組み水路、瀧口に向かうような分水石。中心石左には樹齢100年のヤマモミジがある。中心石背後、庭の奥には目立つ石が置かれ、中心石を眺めている。義景は側室の少将を溺愛したがために朝倉氏を滅亡させたと言われているが、石々は純朴で温かい人々を表現し、愛に溢れている。遥拝、神の降臨だけでは作りえない美しさがあるのは愛の表現がされているからだろう。この庭に信長が出現する以前の文化を見る思いがする。信長が天下布武を行い、秀吉が刀狩り・太閤検地を行い、家康が確固たる封建制度を作り上げた結果、日本人は目的意識が強くなり、合理主義者となり、シャープになったと思う。この庭には信長が出現する以前の男女が平等な立場で愛の歌を交換し合っていた時代の文化が息づいている。