本堂裏に息を飲むほどに美しい遥拝庭園が展開している。遥拝場所は2箇所、一つは井伊直助が座った書院(庫裏奥)席、もう一つは心字池の岸側に一つだけ置かれた礼拝石(座禅石)。龍潭寺伽藍全体で(奈良)三輪山を神体山とする大神神社を遥拝しているので、井伊直弼が座った書院(庫裏奥)席から井伊家御霊屋を望むことは庭を通して大神神社(三輪山)を遥拝することになる。目線は本堂の長い廊下、雨水を地下排水する石組と玉石にて作られた直線の排水路、長細い池に沿い自ずと遥拝先に向かうようになっている。庭石は御霊屋に近づくほど少なくなり遠近感が強調され、遥か遠くの三輪山を遥拝する感じが出ている。そこに御霊屋があるので、遥拝先の三輪山と重なり尊く敬うべき聖なる御霊屋と感じさせている。書院席から見た庭は三輪山に権現した大物主と御霊屋に礼拝する形となっている。伽藍が南南西の三輪山を遥拝しているので、北北西についても神体山を遥拝していると読み、グーグル地図で伽藍方向に沿って線を伸ばすと御嶽山山裾に到達した。伽藍全体を時計回りに約3度回転させれば御嶽山の主峰、剣ヶ峰に向く方向なので、伽藍は剣ヶ峰をピッタリと遥拝している訳ではないが、剣ヶ峰と本堂中心を線で結ぶと庭の中心石(守護石もしくは御本尊石)と礼拝石を通過した。御嶽山は大きな山なので、山裾まで遥拝範囲に入れると本堂は御嶽山に向き、本堂は裏庭を通し御嶽山を遥拝している。真の遥拝点は本堂内になく、礼拝石にあると読んだ。礼拝石から中心石を見ることは御嶽山の主峰、剣ヶ峰、及びそこにある御嶽神社奥社を遥拝することに通じている。中心石の左側方向には能郷白山と山頂にある能郷白山神社奥宮、白山と山頂にある白山比咩神社奥宮がある。中心石の右側方向には奥穂高岳と山頂にある穂高神社嶺宮、穂高見命の御神体である明神岳がある。グーグル航空地図では、どの石が遥拝目印石かまで特定できなかいが、これら聖地を遥拝するための目印石があるはずだ。特定できたのは、中心石(御本尊石)とそれを守る左右一対の仁王石、左側の仁王石は名古屋城を、右側の仁王石は江戸城の遥拝目印となっている。礼拝石から見た庭は徳川宗家と尾張徳川家が仁王となって御嶽山に権現した大国主を守る形となっている。本堂側から見た庭の情景について解いてみた。中心石は御嶽山主峰、剣ヶ峰を、中心石のある築山は御嶽山そのものか飛騨山脈を模し、中心石下に石を並べ木曽川上流を表現している。おそらく三尊石組の中心石で御嶽山主峰を、寄り添う石で剣ヶ峰、小秀山を、三尊石組みで御嶽山を象徴し、築山で飛騨山脈を表現している。その築山左の枯瀧は飛騨川で木曽川に合流、左隣の築山は飛騨高原、更に左隣の枯瀧は長良川、更に左隣の築山は両白山地だ。右に視線を移すと亀石がある築山で木曽山脈を、右隣の枯瀧は天竜川、右隣の築山は赤石山脈でその右の枯瀧は大井川を表現している。細長い龍がひそむような水をたたえた深い窪みのような心字池は太平洋ということになる。整った構成となった庭だ。易経に当てはめると「27山雷頣(さんらいい)」が当てはまると思う。正しいことを、正しいものを、正しく養うべきことを表現している。小堀遠州らしい二つの顔を持った庭だ。遥拝点を二つ設けることでそれを実現している。一つは屋内の書院から本堂廊下、直線の排水路、細長い池を見せることで無意識に神体山、三輪山を遥拝させる。もう一つは庭の礼拝石から佛を模したと説明されているそれぞれの庭石を拝ませることで神体山である御嶽山及び多数の霊峰を遥拝させる。二つの遥拝点から徳川家が厚く信仰する大国主、大物主に礼拝し、礼拝石から仁王を模した徳川宗家と尾張徳川家を敬うようになっている。徳川幕府成立前、終結前にそれぞれ命を捧げる働きをした井伊家にふさわしい庭となっている。築山の背後に一列にスギ、ヒノキ、カシ系の大木を植え、空を覆い山のように見せている。本堂から見た御嶽山遥拝庭と類似構造の庭として小堀遠州が作った(静岡県磐田市)医王寺庭園が思い浮かぶ。医王寺の庭に礼拝石は見当たらなかったが、医王寺本堂が京都御所と清和天皇水尾陵を同時遥拝しているので、そちらの一列の大木は嵐山、愛宕山を表現していたと思う。本堂表に白砂庭がある。本堂中心と仁王門中心を結んだ線の先に佐鳴湖と太平洋があるので、白砂にて佐鳴湖、もしくは太平洋を表現したのだと思う。本堂の上の間と浜松城天守閣を線で結ぶと白砂を通過したので、浜松城の気を白砂に反射させ上の間に取り込む構成としたことが読み取れる。白砂周囲を深い緑で囲み、浜松城が発信する方針、情報に注意深く耳を傾ける姿勢を表現している。枯山水の庭にて天と逆行する水を見せないことで、徳川幕府の政策に恭順し幕府に従って行く意を表している。井伊家の甲冑と同じ色に塗った開山堂が心に沁みた。