玉泉園(ぎょくせんえん)
敷地北側の入口を入るとアカマツ、シラカシ、イヌマキの傍らに若葉が美しいカシワが目に留まった。樹木の種類が多い庭だ。
庭は兼六園の樹木を借景とし、兼六園を水源とする。崖で上段と下段とに別けられている。上段の庭は池、茶室、露地からなる明るい庭。下段の庭は西庭、本庭、東庭からなる。西庭は入口を入ってすぐの明るい庭。本庭は「玉澗(ぎょくかん) 様式」の暗い庭。東庭は本庭と上段の庭を結ぶ山道の薄暗い庭。これらの庭以外に、長屋門と玉泉邸との間に坪庭があったはずだが今は坪庭も長屋門も無い。上段の庭と西庭は自動車道建設の為に相当削られたことが見て取れる。まるで本庭を守るために敷地外側の庭が身代わりとなり削られてきたように見える。
西庭のコケ面上に並べられた飛石が太陽光を反射し明るく浮かび上がっている。土蜘蛛(つちぐも)を連想させるような石灯籠、キリシタン灯籠が置かれている。ドウダンツツジが壷型の白い花を、ツツジが赤い花を、つる性の植物が葉の下に鬼面のような白い花を咲かせていた。花木が多いので武家が亡ぼした人々を慰める庭に見えた。構造簡単な庭なので、本来は借景庭園だったと思う。自動車道が造られるまで西庭と兼六園との間に建屋は無く、兼六園の樹木が綺麗に見えたはずで、借景樹木を綺麗に見せると共に西庭を更に明るくするため白壁塀があったはずだ。
次に大木で囲まれ、高度差ある崖のある本庭に向かう。西庭が明るかったので、本庭に近づくだけで暗くなったと感じる。明るさ暗さの大きな差にて深山幽谷の世界に入ることを暗示している。本庭内に足を踏み込むと陰の極みを表現しようとした築庭者の意気込みが感じられる。そこには豪快な二つの瀧、崖面上に設けられた枯瀧、広さを感じる池がある。池の周囲は大木が囲んでいるが、見上げなければ空が見えないほどにモミ、マテバシイに似た木が巨木に育ち、アカマツが大木に育っている。これら巨木、大木が池に迫ってくるので浄土式庭園とは雰囲気が異なる。福井県 大安禅寺の本堂(方丈)裏庭に似て庭が陰の気を振りまいている。兼六園の聖なる水が二つの瀧口から流れ落ちている。瀧は深く掘り込まれ、深く切り込まれている。渓流も土に深く切り込まれている。瀧で勢いよく落ちた水が渓流で静かな流れに変わり池に静かに流し込まれている。水を静かに流し込むことで山奥のひっそりとした池のように感じさせている。瀧が発する動の音を吸い込む巨木、大木群。そして波立たない池が視覚的な静かさを倍増させている。動の音と静の音とを共存させている。鳥、カエル、虫の鳴き声も同じような効果を発揮することだろう。
瀧が発する動の音と、動の音を吸い取る静の巨木群。荒々しい瀧の石組みと穏やかな池。巨木の陰に育つ多品種の樹木群。陰が発する音を陰が消す陰の極み表現をしている。水辺のミズバショウ、カキツバタ、池周辺のサツキ、巨木の日陰に育つアセビ、ツバキが陰の庭に花を添える。
一言で言えば陰の水と対話する庭だ。銀閣寺茶室跡など室町庭園は陰の大地と対話する庭だが、ここは水と対話する庭になっている。玉澗様式の庭とは水と対話できる庭で、庭芸術に新天地を切り開いた庭だと感じた。
東庭を通り抜け上段の庭へ登って行く。本庭とうって変わって上段の庭は茶室と小さな池を中心とした極めてシンプルで明るい庭。茶室の傍に朝鮮五葉松の大木、アカマツ、イヌマキが育っている。池の周りにツバキ、サツキ、カエデが育っている。本来は借景の兼六園を仰いで見せる庭である。
借景の樹木と青空を美しく見せる為に南側の道に面し白壁塀があったはずだ。茶室をグーグル地図でチェックすると、兼六園、霞ヶ池の蓬莱島に向けていた。蓬莱島の聖なる気を茶室に取り込み、その聖なる気を庭全体に流し込むような庭設計がされている。
この庭の築庭期間は平和な時代を迎えた武家が内省文化を探求していた時期なので、陰の庭を極めようとする意気込みがある。静の中に動があり、動の中に静がある。ここは武家の豪快さと教養に溢れている。
庭の遥拝先を調べるため、現在はレストランとして使われている玉泉邸(主屋)の向きをグーグル地図で調べた。玉泉邸の長手方向のラインをそのまま東南方向に伸ばすと東京大学三四郎池付近、加賀藩前田家上屋敷に到達した。藩主に敬意を示し加賀藩前田家上屋敷に頭を向け寝る方向に玉泉邸を建てたことが判る。玉泉邸の庭方向のラインを西南方向に伸ばしたところ兼六園、加賀本多家敷地を通過したが、ピッタリとした遥拝先は見当たらなかった。明治維新以降、兼六園、加賀本多家敷地は大きく改造されているので遥拝先が撤去されたのだろう。遥拝に頼らない庭となった今「玉澗様式」だけで美しさの勝負を賭けている。
余談になるが、玉泉邸は敷地北側の直線道と平行に建っている。直線道に沿ってラインを東南方向に伸ばすと加賀藩前田家上屋敷跡に到達する。この直線道を反対方向に約150m伸ばすと兼六園の北端に到達する。このことから江戸時代、兼六園の北端に加賀藩前田家上屋敷を遥拝するポイントがあり、そこから直線道を見て遥拝していたことが読める。玉和泉邸の隣の加賀友禅会館も直線道に沿って建てられているので玉泉邸と同じく加賀藩前田家上屋敷を遥拝する方向となっている。
当庭園は脇田直賢(1585年~1660年)が築庭を始め、四代目まで約100年をかけて完成させた。脇田直賢が出世したのは寛永年間(1624年~1645年)に行われた大阪夏の陣の戦功の恩賞見直しによるものなので、築庭開始は寛永年間(1624~1645年)、築庭を終了させたのは徳川吉宗が第8代将軍職を勤めていた期間(1716年~1745年)、享保の改革(1716年~)中。武家にとって良き時代、内省文化を追及していた時代に造られた庭だ。
享保の改革以降、全国的に税徴収が強化されるも、幕府・大名は慢性財政難に苦しみ続け、続けて寛政の改革(1787年~1793年)、天保の改革(1830年~1843年)を行うも財政再建できず、明治維新に隠れて武家(幕府・大名)は倒産した。明治維新は西郷隆盛を中心とする封建制度破壊者側の勝利だが、幕府を含む武家が自らの財政破たんを隠すため幕府打倒に協力し計画倒産させたことは否めない。この庭は享保の改革以前の武家文化が花咲いた時代に造られた。その時代だったからこそ陰を極めた「玉澗様式」庭園が出現したことが偲べる。内省や反省から縁遠くなった現代日本人にはこの庭を一から作ることができないと思う。しかし自分探しが好きな日本人にとってこの庭には共感できるものが多い。決して陰気な庭ではない、陰の中に豊かさがある。
カエデが葉を落とす冬は見通しが良くなる。借景とする兼六園の樹木とその上空の青空が心に沁みることだろう。陰に籠った庭なので落葉樹が葉を落とし見通しがよくなると、幹と幹との間から見える借景の風景が神々しく見えることだろう。この庭が一番美しく見えるのは庭の樹木から借景の樹木まで白雪が一面に積もり、白雪が太陽光を反射して輝く時、陰の庭が一気に陽の庭に変貌する時なのかも知れない。
現在、兼六園との間の自動車道が発する自動車の騒音が鑑賞の邪魔になっている。自動車道に面する木塀を防音効果のある白壁に替え、カエデなどの枝を落としたほうが本来の庭に近づくと思う。本庭は陰の気をふりまいているので借景の兼六園の樹木と青空が見えればバランスが更に良くなると思う。