兼六園「霞ヶ池」(石川県金沢市)

兼六園(けんろくえん)「霞ヶ池」

紫雲山を借景とする栗林公園(16万ヘクタール)、岡山市内を流れる旭川の中州にある空の広い岡山後楽園(13.3万ヘクタール)に比べ兼六園(11.7万ヘクタール)は狭いが、約1.7㎞東の卯辰山(標高141m)を借景にし、豪快にマツを育てているので両庭園に比べても狭いと感じない。

「霞ヶ池」周辺は江戸庭園の雰囲気を残していた。「内橋亭」が「霞が池」に飛び出し、「霞ヶ池」の背後(西側)に「栄螺山」がある。「霞が池」の東、二股脚の「ことじ灯籠」から「霞ヶ池」「内橋亭」「栄螺山」を望むポイントが写真撮影ポイントになっている。

「内橋亭」建屋の長手方向が「蓬莱島」石塔に向いているので、「内橋亭」が遥拝所で「蓬莱島」石塔が遥拝目印となっていることが判る。「内橋亭」の長手方向を東北に向けグーグル地図上で伸ばしたら蓬莱島の石塔を通過し会津鶴ヶ城に到達した。「霞ヶ池」は猪苗代湖「蓬莱島」は猪苗代湖の翁島に見立てたことが推測できる。

「栄螺山」山頂が日光東照宮の遥拝所となっている。「蓬莱島」石塔が遥拝目印となっている。「栄螺山」から「霞ヶ池」を望むと天空の池に見える。「蓬莱島」は大亀に見え、大亀が天空の池を泳ぎ東の卯辰山方向に向かっているように見える。二本のマキの大木の幹と幹との間から「蓬莱島」を見るのが美しい。

「内橋亭」が会津鶴ヶ城を遥拝しているので会津藩保科家(松平家)から加賀藩前田家に嫁いだ二名の正室のために造ったのかと思って年代を調べて見たがそうではなかった。

加賀藩第4代藩主、前田綱紀(1643年~1724年)の正室、摩須姫(松嶺院1648年~1666年)は会津藩初代藩主、保科正之の娘。加賀藩第6代藩主、前田宗辰(1725年~1747年)の正室、常姫(梅園院1725年~1745年)は会津藩第3代藩主、松平正容(保科正之の6男)の娘。内橋亭が造られたのは1776年(安永5年)なので、摩須姫、常姫が内橋亭で故郷を懐かしむことはなかった。

内橋亭が造られた当時、金沢の90%を焼失した宝暦の大火(1759年(宝暦9年)で加賀藩は莫大な財産を失い再建のために財政は停滞していた。親戚の会津藩はすでに財政破たんしていた。世界情勢を見ると1776年アメリカ独立宣言、1775年~1782年、イギリス東インド会社がマラーター同盟と戦争を行っていた。イギリス、アメリカによる世界支配が始まろうとしていた。国内外の事情で加賀、会津両藩は関係強化の必要性があり、両藩の友好シンボルとして内橋亭を造ったのではないだろうか。

兼六園の歴史を読むと、宝暦の大火後、兼六園が再建開始されたのは1774年(安永3年)、同年、翠瀧と夕顔亭が完成、1776年(安永5年)内橋亭が完成。1837年(天保8年)に霞ヶ池を掘り広げ、栄螺山を築き、姿形の良い木を植え、1860年(万延元年)に蓮池庭との間にあった塀を取り壊し完成した。完成が幕末なので栗林公園、岡山後楽園など他の大名庭園と比べ政治会談場としての色が濃い庭園だったと思う。

幕末時には加賀藩も財政破たんしていた。兼六園は破産管財人であり財産引受人である明治政府に引き継がれた。霞ヶ池、栄螺山、内橋亭、翠瀧、夕顔亭、噴水は残されたが、それ以外の部分は明治政府による改造が始まった。霞ヶ池、栄螺山、内橋亭は江戸庭園の雰囲気が残っているが、これ以外の部分は欧州庭園風への作り替えが進められた。その流れは今も変わっていない。

「時雨亭」(しぐれてい)2000年(平成12年)に建屋は復元されたが、もとの場所でない。建屋の向きが兼六園の他の建屋の向きと違うので遥拝先が復元前と同じと思えない。現在の建屋はピッタリではないが富士山山頂に向いている。富士山遥拝方向に建屋は向いているが、庭の中に遥拝先の目印が見当たらない。一言で言えばモネ、ルノワールら印象派絵画を模した近代庭園である。建屋近くの石を黒系の石とし、長谷池に近づくほどに明るい石とし、長谷池対岸の瀧付近の石を一番明るい黄色系の石としている。瀧には梢や葉の間から太陽光が零れ落ち、落下する水をキラキラと光らせている。陰の瀧に陽の太陽光を散りばめ、陰陽をごちゃごちゃと混ぜることで印象派絵画的な光の美を作り出していた。

「瓢池」(ひさごいけ)浄土式庭園を発展させた池泉庭、

二つの瀧があり、池の中に二つの島がある。従来は一つの池であったものを海石塔がある島の所でコンクリート壁にて池を二分割し、翠瀧から落下する水を貯める池と、南側の瀧から落下する水を貯める池と2分割し水位を変えている。その他の改造場所は判らないが本来は神が降臨するような雰囲気だったと思う。

兼六園は大名庭園の名が付いているが、加賀藩の匂いを消す明治維新以降の改造が今も続いている。兼六園は新しい日本庭園の実験庭園に見える。そういった宿命を負わされた庭なのかも知れない。明治政府が霞ヶ池、栄螺山、内橋亭を残したのは加賀藩の政治的失敗を示したかったのかも知れない。いずれにしろ美しい霞ヶ池などが残り今に鑑賞できることは庭愛好者として嬉しい。兼六園のあちこちに美しい江戸庭園が残っている。魅力に満ちた庭園だ。