旧足守藩侍屋敷遺構

家老の庭

足守藩初代藩主、木下家定(1543年~1608年)元は杉原姓、妹 高台院(北の政所)は豊臣秀吉の正室。秀吉の出世に伴い木下家の一員となり木下姓に変えた。後に羽柴姓を与えられ、豊臣姓も下賜された(江戸時代には羽柴姓も豊臣姓も使う事は許されなくなった)。別の妹 長生院は浅野長政(1547年~1611年)正室。子にも恵まれ、長男木下勝俊は足守藩2代藩主、次男木下利房も事情により兄と同じ足守藩2代藩主、3男木下延俊は豊後日出藩初代藩主(城持ち大名)、5男小早川秀秋(1582年~1602年)は関ヶ原の合戦で名を上げた。孫(木下利房の次男)木下利次(1607年~1689年)は高台院の養子となり高台院が亡くなった後、豊臣家社稷(しゃしょく)を継ぎ、旗本・近江木下家初代当主となった。これら歴史から高台院及び木下家定の実力を見ることができる。当屋敷は足守藩家老であった杉原家(木下家定血筋)が使っていたもの。江戸時代中期(1651年~1745年)頃に建てられ、1973年(昭和48年)まで使われた。足守陣屋(お屋敷)から約100m、すぐに陣屋へ駆けつけることができ、いつでも藩主を受け入れることができる地点にある。長屋門を入ると母屋の立派な玄関が迎えてくれる。木下家定につながる家なので、建屋に遥拝先が無いはずがない。そこで母屋・長屋門の向きを調べると、北西に出雲大社本殿を、南西に備中国総社宮を遥拝していた。陣屋跡に隣接する木下利玄の母屋も同じ方向に向いていた。中門を潜り庭に入る。庭に入ると真っ先に母屋の「一の間」と「御成門」が目に入る。御成門は藩主専用の門で外側には豊臣家の桐紋が入っている。藩主は表通りから庭に入り「一の間」に上がれる。一般的に屋敷の鬼門方向に門を開けないものだが藩主の便宜を一番に考えている。長屋門に隣接して貴人口しかない茶室が設けられている。蹲踞と灯籠で露地が有り、母屋から飛び石をつたって茶室に至れるようになっている。「一の間」に隣接して藩主以外の客人を迎える「二の間」がある。庭は池泉と築山からなり、庭の三尊石及び築山は御成門の近く、陣屋跡方向に配している。陣屋、御屋敷から送られてくる気を庭に取り込み母屋に送り込む構図となっている。庭の築山に上がれば、陣屋(御屋敷)跡が見えた。庭を見れば自ずと藩主に思いが至り、藩主と一心同体であることを感じるようになっている。この母屋内でプライバシーを守るには住人の間で約束事が必要となる。母屋内には小さな押入れが一つだけ。母屋のど真ん中に、切腹の場を想像させる2畳の仏間がある。家老の間のみ襖を閉めればプライバシーが守られるようになっている。母屋は公務優先、この屋敷はしっかり躾を受けた人でなければとても住めたものではない。鬼門方向の御成門を意識してかナンテンがたくさん植えられていた。三尊石近くのアラカシなどの木が大木となっている。裏庭と通じる所のスダジイの幹が巨大となっている。マツ、イヌマキ、サツキ、ヒイラギなど江戸庭園の樹木が植えられている。ズミだと思うが赤い実をつけた花鑑賞用の低木があった。裏庭は「一の間」に涼しい風が通るように樹木で陰を作り、地面付近の枝を全て払っている。柿木2本が印象深かった。一切の虚飾を排し、家老が公務と生活を行うに必要なものだけを備えた母屋と庭。見ていて清清しい。池も庭の雨水を貯め地下に浸透させる機能的なもので、借景の山を高く見せる以外に御成門から入場する藩主を偉大に見せる役割もある。どこまでも藩主を第一に考えた庭と屋敷だ。ふと、今は無い御屋敷(陣屋跡)、或いは御下屋敷には高台寺の開山堂前の池庭を模した池、或いは高台寺を遥拝する目印が有ったのではないかと思った。高台寺開山堂には木下家定とその妻・雲照院の像が祭られている。御屋敷(陣屋跡)にはご先祖に思いを至らす意味を込めた庭があったはずだ。