頼久寺庭園

小堀遠州の綺麗な遥拝庭園

当寺本堂と富士山火口付近を直線で結ぶと、その一本直線には名古屋城天守閣の中心、比叡山延暦寺根本中堂の中心、霊峰比叡山山頂よりわずか約30m北側、賀茂別雷神社(上賀茂神社)の本殿、清和天皇陵より約80m南側が連なる。つまりは庭南側建屋(庫裏)から青海波を表現したサツキの大刈込を見ることは、清和天皇陵、上賀茂神社、比叡山、延暦寺根本中堂、名古屋城天守閣、それら背後にそびえる富士山を遥拝することにつながっている。これほど源氏の聖地が詰まった遥拝点は稀だと思う。江戸時代は源氏の世の完成形であるが、その江戸時代における最高クラスの遥拝地を一直線上に持つ恵まれた地に庭を造っている。この庭の青海波状のサツキの大刈込みの美しさは遥拝先から送られて来た聖なる気も加算されていると思う。近代庭園で同じような波状の大刈込を見るがこれほど美しいものはない。この恵まれた遥拝線に合わせ、普通ならば本堂、庫裏、書院、薬師堂を建てるところだが、これら建屋の向きはそうなっていない。建屋のいくつかの部分は(浜松)濱名惣社神明宮を遥拝している。庭北側の書院と濱名惣社神明宮本殿を結んだ神佛の通り道は(京都)一休寺唐門を通過する。一休寺の方向に建屋を向け、建屋の向きに沿って庭鑑賞することで一休寺を遥拝することにつなげたのは小堀遠州が大徳寺で修業したことに関係あるのだろうが、上述した遥拝一直線上にあまりに偉大な遥拝先が連なるので、遥拝先に不敬とならないよう建屋を遥拝直線方向に向けなかったのだろう。この配慮が小堀遠州のセンスの良さ、出世できた訳なのだろう。書院側に黒い玉石と黒色が混じった大きな飛び石を並べ、足元を黒くし、その先に明るい白砂、白砂庭周囲に大刈込を設けている。庭全体が明るく軽快だ。リズミカルにサツキの丸刈りを配し、サツキの大刈込で青海波を画き、その背後に背の高いツバキの大刈込を設け、それぞれのパーツを極めて単純な形とすることで借景を引き立てている。庭が東南方向の愛宕山に続いているように見せるため、丸刈り群や大刈込が愛宕山に向かっているように配している。そして東側の山(海抜約160m)に庭がつながっているように見せるため、大刈込を段々状に配している。愛宕山を見せる手法は、正伝寺庭園が見せる比叡山と同じような技法となっている。明るい白砂と明るい青空との間に愛宕山を挟み、心が愛宕山に吸い込まれるように見せている。正伝寺庭園は、海抜約145mの正伝寺から8.53㎞先の海抜845mの比叡山を見せているが、高度差が700mもあるのに距離が離れているせいで(地球の丸さもあり)見上げるという感じではなく、目線より少し上に見える程度であり、距離があることで比叡山に反射する光の中で直進性の高い(波長の短い)青色以外の色が消されるために比叡山が青黒く見える。それに対し、当寺の海抜は約70m、当寺から1.66㎞先の愛宕山(海抜427m)との高度差はわずか357mだが、距離が近いため、そびえるように見え、山の緑色もクッキリと見える。庭に掘り込みを設け、書院の軒先を視界内に入れることで高度差以上に愛宕山頂を高く見せている。書院内の庭を眺めると鶴島に立つ鶴石が庭の中心石となっていることが判る。その鶴石の頂点と愛宕山山頂とを線でつなぎ、更にその線を南東方向に伸ばすと備中国総社宮にピッタリと到達する。鶴島に立つ中心石(鶴石)と愛宕山山頂とが上下に重なるように見える書院内のポイントが備中国総社宮遥拝点となっている。鶴石と愛宕山山頂とを組み合わせて備中国総社宮遥拝点の目印としている。庭の単純化で借景の山々(愛宕山・東側の山)を庭の一部とし、借景の山々(愛宕山・東側の山)に心が奪われるような見せ方をし、更に借景の愛宕山山頂や東側の山裾を遥拝ポイントとして活用している。古田織部の美を引継いでいると思ったのは書院内茶室の北側、庭の池に架かる石橋。この石橋は書院に略平行に架けられているので書院同様に一休寺に向いている。その石橋の真ん中を欠けさせ、石橋の連続を止めている。石橋の中央部、一番重要な所を欠けさせ、欠けた美しさを表現している。一休を模した石像を置いている。一休を迎え入れる方角に石橋があるが、招かれやって来た一休が欠けた橋を渡れない。一休の有名な説話「このはし渡るべからず」に引っかけている。この表現は禅問答なのか、庭を鑑賞する茶人達を喜ばすためなのか、一休を尊ぶが庭や屋敷に受け入れないということなのか、その目的はわからないが欠けた美を見せるだけでなく、鑑賞者を思索に導き入れる役割を果たしている。この小さな石像を置いたことで、石橋を渡れないで橋桁上に佇む一休の姿が判り易くなっている。しかし江戸末期の滑稽な庭にも見えてしまう。池と石橋からなる北側の庭背後のタケが目障りになっている。築庭当時にモウソウチクは中国から未だ移植されていないので、タケをすべて伐採すれば、陰の池、陰の中にある木々の幹の間に陽の青空が広がり陰陽のバランスが取れ、この陰の庭は築庭当初の美さに甦ると思った。庭先のツバキが赤い花を咲かせていた。夏、茶室の戸を全開にすれば、池で冷やされた空気が書院内を通過し南側の境内の庭園へと流れる。そして書院内から愛宕山を借景とする南側の庭と、清涼感のある池のある北側の庭を同時に見える。北側の陰の庭と南側の陽の庭が太陽光の変化にて織りなす陰陽の駆け引きを楽しむことができる。書院内から庭を鑑賞する人がその駆け引きの美にて陶酔感に浸れるよう設計されている。この技法は小堀家の菩提寺、滋賀県長浜市 孤篷庵(こほうあん)の庭で見ることができる。書院南側、愛宕山を借景とする白砂庭中央の鶴島。借景の愛宕山と書院とを結びつける鶴島、これは滋賀県甲賀市 大池寺(だいちじ)で見た大刈込で作った宝船と同じような技法だ。大地寺の宝船は大刈込で作られているが、こちらはサツキの大刈込の中に鶴石を立て、石の頭で天を突き刺すようにしている。これらはシヴァ神のリンガ表現を模したものだ。借景の愛宕山、東側の山、そして庫裡、書院で庭を取り囲み、庭を母の胎内(宇宙)のように見せ、そこにリンガを模した鶴石を立てることで究極の陰陽世界を表現している。この技法は南禅寺金地院(こんちいん)「鶴亀の庭園」で見ることができる。鶴石と愛宕山山頂とが上下方向で一致する遥拝点で庭を見た時、亀島の石など他の庭石は借景の愛宕山が力強く見えるように配されている。この遥拝点から備中国総社宮を遥拝すればエネルギーが授かれるような気になる。この技法は清水寺成就院(じょうじゅいん)で見ることができる。成就院では庭先の二つの灯籠が重なって見える書院内のポイントから見る庭は迫力があるが、他所から見る庭は迫力が無い。中心石(鶴石)は薄い石だが書院側から見ると堂々と見える。しかし薄い石なので庫裡側から鶴石を見ると、庭の風景から鶴石を消し去るような表現となっている。この技法は二条城(にじょうじょう)「二の丸庭園」に多数立つ薄い石と同じだ。おそらく鶴石が一番薄く見える庫裡東側のポイントが、清和天皇陵、上賀茂神社、比叡山、延暦寺根本中堂、名古屋城天守閣、富士山の遥拝点で、鶴石は遥拝方向の目印なのだろう。二条城二の丸庭園に多数立つ薄い石もすべて遥拝方向を指し示しているのかも知れない。当然のことながら青海波を表現したサツキの大刈込みは書院から眺めるより距離が近い庫裡の東側の部屋から見るほうが迫力ある。銀閣寺茶室跡の庭は崖に差し込んだ石々で庭と対話できる庭としていた。こちらは大刈込と対話できる庭、引いては遥拝先と対話できる庭となっている。青海波を表現したサツキの大刈込の背後に更に壁状のツバキの大刈込が二つあり、その背後に落葉樹と広葉樹とが混じり合った東側の山が、山の上には青空が広がっている。山を高く見せる為の掘り込みが東側の山をより高くみせている。山とツバキの大刈込とを明るい白砂面とそれに続く明るい緑のサツキの大刈込、上空の青空とで挟み、心が深い緑のツバキの大刈込の中に吸い込まれるようにし、遥拝効果を上げるように演出している。小堀遠州の出世庭園と言われた「伏見奉公所庭園」跡から集めた石で作った再現庭園が御香宮神社(ごこうのみやじんじゃ)にあるが、庭があった場所が違うし、庭に隣接する建屋形状及び方角も同じはずがないので、再現庭園は何を遥拝するための庭か判らなくなっている。それに比べ当庭園は恵まれた遥拝先を今も持ち続け、小堀遠州の築庭の原点を見ることができる。この庭に戦国時代の血なまぐささは無く、戦場に流れる爽やかな空気もなく、戦国武将達を表現した石も見当たらない。平和な時代に築庭されたことが良く判る。小堀遠州の「綺麗」世界が表現されつくされている。「綺麗」とは何かを鑑賞者に問いかける庭となっている。生涯「綺麗」を問い続けた小堀遠州の心がある。庭鑑賞に酔いしれ、庫裡を出て境内西にある山門から寺を出ようとしたとき、門の口から見える西側の風景に見入った。山門は(対馬)海神神社を遥拝している。門の口から見える二つの山が交わる谷が海神神社への遥拝目印となっている。山門を通して見る二つの山の見せ方は正伝寺庭園が見せる比叡山と同じような技法に少し手を加え、見せ方を違えている。門の出入り口を陰(かげ)とし、門枠にて風景に暗い枠取りをすることで、門開口部を画面とし、画面下側に白壁、画面上側に明るい青空を配し、二つの山を挟み込み、山を浮かび上がらせている。正伝寺庭園が見せる比叡山との違いは画面の左右に一対の山を見せていること。山と山との間にV字型に谷が割り込んでいるので、両側の二つの山がこちらに迫って来る。先ほど境内で見せた愛宕山は鑑賞者の心が山に吸い込まれるように見せていたが、この門の口から見える一対の山は山がこちらに向かって歩いてくるように見せている。山門から出るときにも感動を与えてくれる。小堀遠州庭だと思わせる。山の谷間に沈む夕日、満月が谷間に沈む風景は格別なものだろう。1604年~1617年、小堀遠州(1579年~1647年)は備中松山藩を統治していた。1608年~1609年(慶長13~14年)駿府城普請奉行、1609年~1611年(慶長14~16年)名古屋城天守作事奉行、次いで後陽成院御所造営等、幕府の仕事が続いている。1608年(29歳)以降、小堀遠州は激務の中にいたはずだ。当庭園は小堀遠州が藩主となった1604年から激務に入る1608年までの間にここで築庭技術を磨き、その後あちこちで積んだ経験を庭に反映させ続け、38歳、備中松山藩を離れる直前に現在の庭に仕上げたことだろう。この庭には小堀遠州が日本のあちこちで築庭した庭の技術が詰まっている。当庭園は遥拝を庭に取り込み「綺麗」な庭に仕上げた小堀遠州の代表作だと思う。