備中松山城

小堀遠州の美が伺える備中松山城

備中松山城天守閣がある高梁市 臥牛山(がぎゅうざん)の一つの峰(海抜430m)に登った。天守閣から西に約520mのところに高梁川(海抜約70m)が流れ、川に山が迫っている。山は急角度の斜面を持つので一大要塞となりえる地勢に恵まれている。天守閣近くにはノグルミの大木があった。カバノキ科アサダの大木があった。標識がなければ何の木か判らないほどの大木だった。1600年、小堀正次(1540年~1604年)が代官として備中松山藩に入り、1604年~1617年、息子の小堀遠州(1579年~1647年)が備中松山藩を統治した。天守閣は小堀正次、遠州(政一)が建てたものを、1642年(寛永19年)に藩主となった水谷勝隆の長男(二代目)水谷勝宗が大改修を行った。天守閣は東南方向に備前国一之宮吉備津彦神社を遥拝する方角に建てられている。少し天守閣の石垣の位置を変えれば、西北に出雲大社を、南西に福山城天守閣を遥拝する方角に天守閣を建てれるのにそのようにしていない。現在の天守閣石垣を造ったのが小堀正次、遠州(政一)親子であったとすると、敢えて封建時代における政治性の高い出雲大社を遥拝先に選ばなかったこと。近隣藩とのトラブルを避けるために福山城天守閣を遥拝先としなかったこと。当地を治めていたとされる大吉備津彦命を主祭神とする備前国と備中国の境にある備前国一之宮吉備津彦神社を無難な遥拝先としたことを推測した。もし天守閣石垣を造ったのが、水谷勝宗であったとすると、水谷氏は、藤原北家秀郷流近藤氏の氏族なので、出雲大社を遥拝先とすることなどありえなかったこと。福山城天守閣の遥拝をしなかったことは、かつて備中松山城の城主で備中兵乱に負け自害した三村元親の子孫が備後福山藩水野氏の家老職(1,500石)を務めていたこと。1641年(寛永18年)~1642年(寛永19年)、備後福山藩主の水野勝成の家臣が備中松山城番となっていたことなどから備後福山藩と当地との関係を断ち切りたかったことが。そして無難な備前国一之宮吉備津彦神社を遥拝先に選んだことを推測した。天守閣付近にはモミの大木が多い。垂直に立つモミの木は美しい。天守閣へ向かう参道のあちこちにはツツジが花を咲かせていた。何時植えたものか気になったし、当地の方々の美を求める気持ちを感じた。備中松山城も頼久寺庭園と同じく綺麗だった。小堀遠州の美意識が当地に根付ていることを感じた。臥牛山山裾に山田方谷(1805年~1877年)が1838年(天保9年)に開校した「牛麓舎」跡があったが標石と看板以外は何もなかった。