宗鏡寺(沢庵寺)

沢庵宗彭の修行と悟りの世界

山奥から流れてきた清水は緑のトンネルを通り抜けたような渓流から心字の池に流れ込む。短時間で心字の池を通過した後、排水路、トンネル水路を経て本堂南庭の西の端から水音を立て本堂脇の水路へと流れ込む。この水路は本堂屋根から落下する雨水の排水を兼ねている。晴天日も透明な清水が流れ続け、鶴亀の庭の池へ向かっている。水音が本堂南庭内と鶴亀の庭に響いている。本堂南庭は白壁塀で南側の山の尾根と区切られ、白壁塀の東側に人が一人入れる程の小さなお堂が、西側には願いの鐘の楼がある。本堂南庭は東に開山堂、南に白壁塀と多数のヒノキの大木が茂る山の尾根、西隣に願成寺の屋根、北に本堂、四方が囲まれているので、水音が反響する。小さなお堂前の池と水路により湿気の多い閉鎖的な陰の庭に見える。しかし、昼間はヒノキの大木の幹と幹との間から、夕方は願成寺の屋根の上から太陽光が差し込み、常に庭中央に座る三尊石を輝かせる。陰の庭に陽の三尊石が浮かび上がっている。三尊石の輝きから遥拝石だと見て取れる。1616年(元和2年)当寺宗鏡寺(すきょうじ)は出石城主、小出吉英の支援を受けた沢庵宗彭にて再興された。前年に大阪城が落城し河内源氏の世となった時期だ。当寺南111㎞先にある淡路島、伊弉諾神宮の本殿は当寺の北北西2.2㎞の出石神社に向いているが、拝殿、参道、正門は当寺に向いている。伊弉諾神宮に参拝する多くの人々の祈りの矢が束となって出石神社と当寺に当たっている。出石神社は各建屋が淡路島、伊弉諾神宮へ向いているので、伊弉諾神宮の祈りの矢をストレートに受け止め、出石神社で祈りを加え北へ飛ばしている。当寺では伊弉諾神宮の祈りに仏への祈りを加えている。神仏融合を垣間見ることができる。本堂南庭の礼拝石と三尊石は伊弉諾神宮遥拝の目印で、三尊石は淡路島を、三尊石の右側のいくつかの石は家島諸島を表現したと思った。本堂・庫裏・開山堂・書院・座禅堂・鐘楼などの建屋は伊吹山頂上日本武尊像を遥拝しているが、1~2度半時計方向には鶴岡八幡宮がある。鶴岡八幡宮と本堂を結んだ線上には富士山火口(大内院)、修験道、若狭三山の多田ヶ岳山頂、飯盛山山頂がある。建屋方向に沿って東を仰ぐことは鶴岡八幡宮、富士山頂上、多田ヶ岳山頂、飯盛山頂上、伊吹山頂上を遥拝することになっている。山門前参道、開山堂参道も略同じ方向に伸びているので山門に向かって歩くこと、開山堂に向うため飛び石を伝って歩くことは伊吹山頂上、富士山頂上、鶴岡八幡宮などの聖地に向かって歩き、これらを遥拝することに通じている。本堂南庭の三尊石左側の宝篋印塔(ほうきょういんとう)は本堂と平行に置かれておらず、明らかに礼拝石からどこかの聖地へ遥拝するための目印となっている。航空地図では指し示す聖地が特定できなかいが、建屋が東方向に源頼朝と縁深い鶴岡八幡宮を遥拝しているので、源頼朝の菩提寺として建立された高野山、金剛三昧院を遥拝する目印ではないかと想像した。山門は品川、東海寺に向けて建てられているので、山門で礼をして潜ることは小堀遠州が作った沢庵宗彭(たくあんそうほう1573年~1646年)墓がある品川、東海寺に礼をすることに通じている。余談になるが東海寺にある沢庵墓は、石田三成に従ったことや石田三成を弔ったこと、そして紫衣事件で幕府に抗弁書を提出した沢庵が聖人となることを阻止するため、名を刻まない自然石墓標を石の柵で囲み、墓らしくない墓とすることで、沢庵の行いは曲がったものだったと伝えようとする幕府の意図が見て取れる。それに対し当寺にある沢庵和尚の墓は禅宗僧侶らしい墓であり、生涯を禅に打ち込んだ節操ある人だったことが偲べる。心字の池には清水が流れ込む。池の入口は小さな瀧となっていて水音を響かせている。瀧のすぐ下流一つ目の中之島で水の流れは二分され、大部分の水は右側の水路を通して排水される。一つ目と二つ目の中之島の間は水が余り流れない水路、二つ目の中之島と手前の岸との間は透明な水を貯える心字の池となっている。心字の池は非常に浅く魚が生息できる余地はない。心字の池に流入した清水は直ぐに流れ出る。それは澄んだ心そのもの。澄んだ心は浅い池のようなもの、流水を続ける水たまりのようなものであり、綺麗な知識や情を常に心に流し込み排出し続けていることを見せている。非常に薄く浅い池(心)であっても、清水(澄んだ情)が流れ続け、落ち着いた環境におれば水面(心の表面)は鏡面のようになり青空(天)を綺麗に映し出す。黄色く紅葉したカエデの葉と梢の間から差し込まれた青空をそのまま反射する。浅く、水流の早い心池であるがゆえに、煩悩の代表である魚が滞留することはない。流水音を聞き続け、或いは蝉の鳴き声を聞き続け座禅を行い悟りの境地に到達した話を聞くが、心中の水のような液体を回流させ煩悩が生じる余地を無くし、解脱を促進させることを提唱している。この景色は1604年(慶長9年)沢庵が大悟した際に心の中で見た風景ではないのだろうか。長いトンネルを潜るような命を賭けた修行を経て得た大悟である。大悟で見た風景を後輩に見せるため庭に画いても不思議ではない。二つの石の間から滴り落ちるように水を落下させる瀧、その傍らに老木となったタラヨウのようなユズリハと思える大木がある。山奥の情景を表現するたくさんのアセビがある。一つ目の中之島には何も植えられていない。二つ目の中之島にはツバキ、カエデが植えられていて、宝篋印塔が置かれている。心字の池の岸には樹齢350年のカエデの大木があり、その近くに葉が落ちていてサルスベリかナツツバキどちらか判らないが樹皮が剥がれまだら模様の幹が綺麗な木がある。投淵軒付近にはアセビ、イヌマキ、小さな刈込のサツキが植えられている。湿度が高いのかコケが育っている。コケ管理によるものか雪の多い地域によるものか京都の寺院庭園で見るコケ面とは違って見える。長い年月のコケの生育で瀧口周囲や池回りの石は庭の中に埋没したようになっている。庭石が庭の中に溶け込んでいる。庭には黄色に紅葉するカエデが多く植えられている。鶴亀の庭は枯瀧に水が流れているような水音がどこからか聞こえて来るので、集中して庭を見ていると枯瀧に水が流れているような気になってくる。枯瀧のイメージを強めるために立てて置かれた大きな石の傍にイヌマキが植えられている。亀が鶴の形をした池の中で泳いでいる。小さな池の中で泳ぐ亀の姿は一畳の畳をいっぱいに使って大悟のために座禅を中心とした禅堂での修行姿に重ねている。池の入口、出口にはそれぞれ石橋が架かっている。座禅を勧めるような平らな石が多く配されている。スギゴケが生え、アセビ、イヌマキ、ドウダンツツジ、ツツジ、カエデ、ツバキが見える。死の世界は暗いトンネルのような世界だと想像するが、山に降った雨が地下水となって長い時間を真っ暗な地中で過ごし、湧き出して小川となり瀧から池へ注がれる。池は光を浴びた生の世界の中にある。まるで鶴の形をした池の中で亀(亀島)は修業ができる喜びを噛みしめながら泳いでいるように見える。修行者の姿を画いているので感動する。多数の石が埋め込まれた枯瀧面や崖面は遥拝先の伊吹山頂上、鶴岡八幡宮、富士山頂上、多田ヶ岳、飯盛山と対話ができるようになっている。小さな庭だがスケールの大きな心に沁みる庭だ。