明石城

明石海峡を通過する船上にいる人々に見せる城だった。1617年(元和3年)、江戸期第二回朝鮮通信使を迎え入れた年、信濃松本藩主だった小笠原忠真が明石に移封され明石藩が始まった。同年、築城命令が出され、1619年(元和5年)、幕府からの資金援助を受け築城を開始、翌年完成した。1624年(寛永元年)、将軍就任の祝辞を徳川家光に述べるためにやって来た第三回朝鮮通信使は坤櫓の端から巽櫓の端まで約115mの長さがある、航路に沿うような石垣上の白壁塀とその両端の美しい櫓、そして今は撤去されたが三の丸南側の長い堀に沿った石垣上の白壁塀に感嘆したことだろう。海上から美しく見せるための赤穂城が完成したのは1661年(寛文元年)なので、第六回朝鮮通信使までは釜山から大阪までの航海途中において、明石城が船近くに見える一番美しい城だったはずだ。朝鮮通信使に石垣上の長い白壁塀を見せることを第一に考えた城なので、明石城を通過して朝鮮半島に向かう遥拝線をグーグル地図で探した。すると伊勢神宮内宮正殿を起点とし釜山鎮支城(子城台倭城)そして1㎞先の釜山城(倭城)に向かう遥拝線が見つかった。その線は(奈良)崇神天皇陵(山邊道勾岡上陵)中心付近、馬見丘陵公園(馬見古墳群)、明石城の巽櫓、坤櫓を貫いている。二つの櫓を結ぶ白壁の築地塀はこの線下にピッタリと合っている。天守台も同じ聖地を遥拝し、三の丸南側の堀もこの遥拝線に沿って掘られている。明石城が遥拝する第10代 崇神天皇は日本が統治していた朝鮮半島の任那からの朝貢を受けた。その故事に倣い、倭城跡がある朝鮮半島釜山から徳川将軍に謁見するためやってくる朝鮮通信使の朝貢行為は崇神天皇以来の伝統行事であることを明石城の天守台、白壁塀、櫓にて表現したのだろう。古来より近世まで、大陸から日本への安全航海ルートは釜山の南、巨済島から対馬を目指すルートだった。朝鮮通信使は釜山から船に乗り、対馬、壱岐勝本港、下関港(馬関)、鞆の浦(とものうら)、牛窓、兵庫に寄港しながら大阪を目指した。大阪湾に入る直前で白壁塀が美しい明石城を見た。そのことから朝鮮通信使が明石海峡を通過するまでの海路中の名所を起点に、明石城を通過する線を引いてみた。(対馬)海神神社本殿と(大阪)四天王寺六時堂を結んだ線は三の丸(武蔵の庭園)を通過した。(対馬)和多都美神社本殿と(奈良)薬師寺三重塔を結んだ線は三の丸(武蔵の庭園)を通過した。(沖ノ島)宗像大社沖津宮と佐紀盾列古墳群中の佐紀石塚山古墳(成務天皇陵)を結んだ線は坤櫓と巽櫓の中間、そして大阪城を通過した。(下関)赤門神社神殿と箱根神社本殿を結んだ線は本丸跡北側の桜堀を通過した。上記した神の通り道以外に(島根)出雲大社御本殿と(大阪)金剛山頂上を結んだ線は坤櫓を通り、(香川)金刀比羅宮と(滋賀)三上山(近江富士)頂上の御上神社奥宮を結んだ線は二の丸、東の丸を通った。以上のように多くの神の通り道が明石城で交叉しているので、明石城は神の降臨地であり、天守台は朝鮮通信使の航海安全祈願所のように感じてしまう。宮本武蔵が生涯一番長く仕えたのは、明石城を築城した小笠原忠真藩主(後に小倉藩主)。明石で町割の指導と作庭を行った。(現存しないが)城内の山里廓でも作庭した。養子、宮本伊織は小笠原家に仕え続け、小倉藩の筆頭家老まで昇り、子孫は現在につながっている。近年、三の丸に武蔵の庭園が作られたが、この庭はかつて山里廓にあった宮本武蔵の庭を再現したものでないことが観て取れる。現在の武蔵の庭園は映画、宮本武蔵一条寺の決斗を連想させる形で、一人で多人数を相手するに適した島を庭の中心に据え、築山の上に剣先を連想させる庭中心石を立て、多くの庭石を荒々しく置き、沼地のような池にて決斗地にふさわしい雰囲気を作っている。かつて宮本武蔵が作った庭は本丸の西、山里廓(現在の陸上競技場)にあったので、西日を背に、十分な太陽光を反射する東側の天守台、本丸城壁と城壁上の白壁塀、白壁の櫓を借景にしたものだった。上述した遥拝線とかつての庭の位置から推測するに、伊勢神宮内宮、崇神天皇陵、馬見古墳群を遥拝するための神々しい祈りに包まれた庭であったはずで、伊勢神宮内宮、崇神天皇陵、馬見古墳群の神々と対話するための庭だったと思う。城内の大名庭園なので、戦場を連想させる庭の可能性は低く、仮に戦いを表現していたとしても、戦うことなく勝つ構えを表現した庭だったと推測した。現在、城と明石海峡の間に多くのビルが建ち、海がほとんど見えなくなっているが、明石海峡大橋が大きく近くに見えるので、ビルが建つ前は天守台から明石海峡を通過する船が手に取るように見えたことだろう。多数の船に乗る朝鮮通信使と天守台にいる藩主とは2㎞ほど距離が離れてはいるがお互い向き合い心の交流をしたことだろう。更に天守台は藩主が田畑で働く藩民の姿を眺め、藩主と藩民とが心の交流をするに適している。天守台に天守を建てなかった理由の一つではないだろうか。海上から明石城を見た場合、姫路城で当てはめたと同じ易経「13天火同人(てんかどうじん)志しを同じくする」がふさわしいと思う。天は公明正大で広々としている。火は物事を明らかにしてくれる。天は剛健で偽りが無い。火は美しく嘘が無い。志を同じくする者がお互い貞節ある行いをすれば実現できないことなど何一つない。幸せな社会を作ろうとする志を同じくする国同士、礼節を持って交流すればいかなる困難も克服できることを表現したのだと思った。