三宮フラワーロードの裸婦像(4)

「WOMEN」日々、繰り返し、繰り返し家事や子育てにいそしんでいたが、事故や事件などにて大切なものを失い、失意のどん底にいる。左肩を落とし手で何かを取ろうとするが、いつも取り上げていたものが無く、何も取れず、更に落ち込んで行く。願望を失い、その場から動く気力すら失っている。失ったものが帰ってこないことは判っているが、いままで通りに体が動くので、困り苦しみの表情をして時を過ごす。心が落ち着くまで苦しみの中にいるしかない。これほどまで困窮すると誰も近寄らないし、活動すれば失敗することが目に見えている。大きなものを失った上に失敗が重なると更に困窮する。よって心が落ち着き、活動する気力が回復するまで孤独でいるしかない。「長い午後」いつまでも雪や氷は残らず、やがて解ける。落ち込んでいた気持ちも消えて行く。長い孤独な休養期間を経て体は回復するも、無表情に雑踏を眺めている。心の回復は体の回復より遅いので、いきなり活動するのは避けなければならない。見たところ「長い午後」像の婦人は中年で、経験も実力も有るが、先ずは実力者、有力者の援助に頼り、社会復帰した方がスムースに社会へ溶け込めそうだ。援助を受けての社会復帰なので、謙虚さを失ってはならない。おおむね援助してくれる実力者、有力者は男性なので立場をわきまえることが大切だ。「エーゲ海に捧ぐ」両腕が無い泳ぎに特化した、髪の毛の長い女性が立っている。目鼻口耳が無いので、女性の心に重要なものは妊娠、出産だということを表現したのだろうか。或いは三宮フラワー通りの裸婦像(1)の「少女」像のように男性は女性の体にしか興味を持たないという批判像なのだろうか。女性の心を表現した幻想的な像はこれから海の中に消え、再度「少女」像に生まれ変わるように感じる。男女は一体にならなければ人格の完成が果たせない。男女共、お互い未完成の体で生まれて来たので、自らに似た異性に関心あり、その異性と結び付き、人格を完成させようとする。人は永遠に終わることの無い変化の中で完璧を求め活動しているが、その活動の源は心が完璧を求め、人生の完成を求めているからだ。永遠に終りの無い旅の中にて人はいつも活動のスタート地点に立たされている。