高源寺 心字の池

当寺は1575年~1579(天正3~7年)明智光秀が行った丹波攻略最後の年に全山焼き討ちされ、1790年(寛政2年)寛政の改革が行われていた頃、織田信雄から数えて7代目子孫、高家旗本家から柏原藩に養子に入りした4代目藩主、織田信憑(のぶより1741年~1832年)が現存する山門、

惣門、多宝塔、方丈を建立し再興を行った。心字の池を中心とした庭はその頃作られた。かつては庭を前にして座禅する書院があったはずで、樹木は高くなく雰囲気は大きく異なっていたと思う。先ずは神仏の通り道をグーグル地図で調べた。(対馬)海神神社と江戸城天守を結ぶ神の通り道は心字の池-岐阜城(岐阜公園)を通過した。(元伊勢内宮)皇大神社一の鳥居と(讃岐一宮)田村神社の素婆倶羅社を結ぶ神の通り道は心字の池と仏殿を通過し、仏殿は両聖地を遥拝する方向に建てられている。この神の通り道の両側には多くの小さな神社がある。(韓国)洞華寺と(京都)貴船神社境内を結ぶ神の通り道が心字の池を通った。これ以外にも複数の神の通り道が心字の池で交叉しており、庭の大半の石が上面平らな神の着座石で、神が遊ぶ池庭形になっている。寛政の改革の影響なのか原則を重んじた庭となっている。水はあるべき姿を見せ、山から流れて来た水が、高所より落下し石を叩きつける覚醒の瀧になっている。瀧水は地に吸い取られ池には流れ込まないが、庭の一番低い所に溜まった水が心字の池を作っている。浅い池の水は透明で池底を見せる。風があまり届かず水面は鏡面となっていて天空を映している。池に沿って道が付けられ道の両端にはそれぞれ石橋が架けられている。庭に入る石橋は「幽霊水鏡の橋」と名付けられ、石橋の上から水面に映る自らの姿を眺めた後、道に沿って歩くことを勧めている。水が定められた所を流れ、定められた所で留まるように、人は定められた道を歩き、定められた場所で行動すべきことを表現している。大木となるスギ、そしてカゴノキなのか樹皮にまだらがある大木、スダジイだと思うが葉が良く見えないほど大きくなった樹木などの中に、大きくならないはずの天目楓、椿、サルスベリが大木となり心字の池を陰の中に沈めている。しかし陰気という訳ではなく梢の間から零れ落ちた太陽光が池面を明るくし、青空を反射している。池面に青空が映っているので天を感じる。天空を映し、池底を綺麗に見せ、(煩悩の象徴)魚が生息しない澄んだ溜り水を見せる池は正に座禅に明け暮れる修行僧の無の心を表現している。庭石は頭が平たい石ばかりではなく、頭を天に向ける僧侶を模ったような石もあり庭に仏教色も添えている。厳しい修行の臨済宗寺院なのでこれまで多くの修行僧がこの庭を前に座禅したことだろう。修行僧の心を整えるための庭だと読んだ。


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