当別邸は三木山の緩やかな山裾斜面に土を入れ小高くし、石垣と木塀で囲い、渓流の水を取り入れ、澄んだ池を中心にした主庭とその先の借景丘陵を上段の間、客坐、縁側から賓客に楽しんでもらうためのものだった。1929年(昭和4年)朝香宮鳩彦王(あさかのみややすひこおう1887年~1981年)が帝国陸軍大佐もしくは少将の立場で演習に来られた際、当住宅を宿舎にされた。宮殿下が滞在された時の雰囲気を感じることが出来る。恵まれた地で、北の(福知山市)皇大神社(元伊勢内宮)と南の(沼島)自凝神社(おのころ神社)を結ぶ神の通り道が細長い敷地の中心を貫き、主庭は自凝神社を背に、皇大神社を遥拝するようになっている。この遥拝線(庭中心線)より少し右には(天橋立)籠神社(元伊勢根本宮)-皇大神社(元伊勢内宮)境内を遥拝する線がある。更に少し右には豊受大神社(元伊勢外宮)-白豪寺本殿を同時に遥拝する線もある。このように恵まれた多くの遥拝先を持ちながらも建屋はいずれの遥拝方向にもピッタリと向いておらず、少しぶれている。宮殿下を受け入れた邸宅なのに日本古来の神々が発する聖なる気を部屋に取り込む向きとしていない。但し、約200m東には播磨三木大宮八幡宮があり、近い距離なので全ての建屋を大宮八幡宮に向けたと言えなくもない。大宮八幡宮と出雲大社本殿を結ぶ神の通り道は本庭を通過し、神の通り道が主庭で交叉しているので神が遊ぶ庭と呼べる。北に開く正門から邸宅内を覗くと主庭北側の築山が見える。明治の富豪宅らしい重厚な石組み、豊かな樹木があり、春はツツジの花、秋は紅葉したカエデにて季節を感じられるようにしてある。北にある正門なので暗く冷たい雰囲気があるが、門を潜ればソテツが温かく迎えてくれる。式台玄関に向かう明るい登り坂は南に向かう方角に登りとなっているので、太陽光の暖かさを蓄えた石々、太陽光を顔に受けることで、式台玄関に近づくほどに、邸宅が温かく迎え入れてくれると感じられるようになっている。その登り坂にはクロマツ、ヤブツバキ、ツツジ、サツキ、アオキ、キンモクセイ、名前が判らないが綺麗な花を咲かしそうな樹木が見え、花が出迎えてくれるようになっている。直接主庭に入れる力強い石階段もあり、美しい庭が傍にあることを感じさせる。上段の間、客座、縁側から北北東方向に伸びる細長い庭は部屋内から先端まで見渡せるようになっており、少し低くなっている庭先端の先に借景丘陵を見せる作りとなっているが、現在、借景丘陵は住宅・ビルなどに遮られている。太陽光が視線の背後から庭に降り注いでいるので、庭は明るく、樹木の葉がこちらを向いているので元気な庭だ。明治の富豪庭らしく力を誇示した多くの石灯籠が目を引く。庭中央の雪見灯篭が庭の中心で、池を取り囲む多くの高価なクロマツも目を引く。池の東側にはアラカシ数本、スギ、モチノキ数本、マサキ、ヒノキ、ナンテン、ヤブツバキ、カエデなどが育ち、池の西側には丸刈りされたサツキ、ツツジ、ツバキ、アラカシ数本などが育っている。竣工当時は水田も借景としていたので、庭は今より広く感じ、リズミカルに配されたサツキやツツジの丸刈りと池両側の重厚な樹木構成にて借景丘陵に集中できるようになっていたことが見て取れる。明石の武家屋敷の庭石を移設したこと、多くのクロマツ、20本ほどの石灯籠で中庭、裏庭共にゴージャスである。圧巻なのが客間近くの一対のモチノキ。接ぎ木で育てたせいか何の木か判らないほどにグロテスクな大木になっている。太い幹は象の皮膚のようで、まるで明治、昭和の異常な時代を象徴しているかのようでもある。目を引き付ける演出の多い点、豪華さが明治の富豪庭だと感じさせる。神を意識した庭なので、本来であれば邸宅建屋は皇大神社と自凝神社(おのころ神社)の神の通り道に沿う向きに建て、南の自凝神社から流れて来た風が上段の間を通過し、北の皇大神社へ向けて流れて行くようにすべきなのに、全ての建屋の向きが少しぶれている。建屋を聖地にピッタリと向けなかったことが惜しいが、これも神仏を意識するが神仏と真っすぐ向き合おうとしない明治時代以降の風潮を映したものなのだろう。中庭にある蹲踞(つくばい)が深く掘り込まれたところに置かれていることが、商家の露地らしく印象深かった。