日中文化融合の近代庭園
1661年(寛文元年)江戸幕府が開創した黄檗山萬福寺は第1代住持、隠元隆琦(1592年~1673年)が故郷福州で16年間、住職をしていた寺と同名。第2代住持、木庵性瑫(1611年~1684年)は隠元に招かれ1655年に来日、10余寺を開創し、門下50余人と黄檗宗の普及に努め1664年、隠元の法席を継いだ。1654年、隠元に随行して来日した慧林性機(1609年~1681年)は1680年、第3代住持となる。同じく随行来日した独湛性瑩(1628年~1706年)は1681年、第4代住持となる。第5代住持、高泉性潡(1633年~1695年)は1661年、隠元の70歳の寿を祝うため来日、帰国せず1692年に住持に就いた。第6代、千呆性侒(1636年~1705年)は 1657年来日し(鳥取)龍宝山興禅寺の中興開山などを経て、1696年に住持となる。第8代、悦峯道章(1655年~1734年)は1686年に来日、(長崎)興福寺住職、(甲斐)永慶寺の開山を経て住持となる。江戸中期まで中国人住持だった伝統を持つので今なお中国の雰囲気を伝える。総門、三門を潜れば他の禅寺と異なる雰囲気を感じる。黄檗宗には長崎四福寺(興福寺、福済寺、崇福寺、聖福寺)があり、江戸時代に長崎滞在した中国商人達の信仰を集めていた。江戸幕府は黄檗宗大本山萬福寺を日本滞在の中国商人の動静情報センターとし、ひいては清国情勢をキャッチする情報機関としていたことが推測できる。伽藍を見ればそれがわかる。入口の総門及び総門前の短い参道、天王堂、本堂(大雄宝殿)、慈光堂、禅堂、斎堂、これら建屋を南北方向に結ぶ回廊、そして開山堂、及びその参道、傍らの松隠堂などの建屋は西の(対馬) 和多都美神社の方角に建てられている。南は熊野那智大社の方角に向いている。よってこれらの建屋内で西を向く仏像は和多都美神社を見つめ、南には熊野那智大社を見つめ、建屋、回廊に沿って南方向に歩くことは熊野那智大社に向かって歩くことになる。法堂とその奥の成徳殿は東に駿府城天守台を、南に熊野那智大社を遥拝する方向に建っているので法堂で拝むことは駿府城を拝むことに通じている。三門及び三門前の短い参道は上記建屋と異なり(対馬)清水山城に向かって建てられ開かれている。三門の南北方向は南禅寺三門と本堂の方角に向け建てられている。三門前の南北方向に伸びる参道も南禅寺に向かっている。以上のことなどから総門を潜ることは和多都美神社を背にして潜ることになり、総門を潜ってから右に放生池を見ながら参道に沿って進むことは久能山東照宮に向かうことに通じ、参道を右折し南禅寺を背にして進み、次いで左折して三門に進むことは清水山城を背にして進み潜ることに通じ、次に和多都美神社を背にして天王堂、そして本堂、法堂へと進み、最後に法堂で駿府城を遥拝しながら礼拝することになる。このように伽藍が指し示す方向は萬福寺に与えられた使命そのものだ。慈照寺(銀閣寺)東求堂と熊野那智大社とを線で結ぶと開山堂と松隠堂との間を通過した。勧修寺宸殿と熊野本宮大社大斎原とを線で結ぶと勧修寺庭園池、当寺開山堂、平城宮跡敷地内を通過した。これ以外の遥拝線は発見できなかったので、京都の他の寺院に比べて遥拝線が少ない地点に当寺が開設されたことが判る。予想に反して隠元禅師が住職をしていた故郷の黄檗山萬福寺に向く建屋、参道が一つもない。隠元禅師を含め中国出身の住持は故郷を捨て、覚悟を決め布教を行ったことが想像できる。寿塔の南側に展開する庭、中和園の名前は当寺が宇治の中和門院(後水尾天皇の母親)の別荘跡に建てられたことに由来すると思うがインターネット検索で説明文がヒットできなかった。中和園についての情報も入手できなかったので、何時作られた庭なのか想像するしかない。禅宗のイメージに合わせた円、丸、球を組み合わせて作庭された結果か、円卓を囲んで食事する中国的な雰囲気に上手く合っている。球体の石を乗せる芸術品を見せる庭だが、江戸庭園樹木が多いので、江戸時代の庭を改修した近代庭園だと推定した。丸いボール状の石を中心として円を描き、円の周囲に神々が集まり座り談笑するような多数の石が並べてある。この庭を通過する遥拝線が発見できなかったので、江戸遥拝庭園のデザインを真似ただけなのだろう。しかしこのデザインによって円が強調され、中国文化と日本文化との融合を感じさせる。まるですべての事柄は丸く収まるものだ、いろいろな事象は丸くつながっていると庭が話しかけてくるようだ。庭の奥の蓮池が異国情緒を感じさせる。龍の形に育てられたアカマツが味わい深い。不謹慎になるかも知れないが、丸いボール状の石の色が黒っぽい灰色なので、カラスのような黒い鳥が舞い降りて来て卵のような球石を掴み取って行くようなイメージを連想してしまう。萬福寺が集めた中国情報を江戸幕府が掴み取っていく歴史を無意識に表現したものだろうか。当寺の伽藍は素晴らしい。中国文化を具現化したものを当時の政権(徳川幕府)が作り上げ、在日中国人の信仰の拠りどころとし、中国文化の発信拠点とした。日本人の信仰も多く集めた。キリスト教弾圧と正反対の政策を行った徳川幕府の行いを伽藍が証言している。