金剛山

標高1125mの金剛山最高峰、葛木岳は神域、立ち入れない。葛木岳の南南西約35m地点に一言主大神を祭神とする葛木神社があり、そのすぐ近くに雄略天皇御猪狩遺跡が、少し下ったところには雄略天皇を祀る矢刺神社がある。雄略天皇はここで一言主大神と出会い、心の交流をし、金剛山の出口まで見送ってもらった伝承がある。葛木神社付近の雄略天皇御猪狩遺跡の看板には約1500年前と説明されていたので。歴代天皇の平均在位期間から1500年前なのか検証してみた。生年、没年、在位年が確証されている最先代天皇は第33代、推古天皇(在位期間593年~628年)。平成が終わった2019年から推古天皇即位593年までは1426年間、93代で割り算、平均在任期間は15.33年(平均年①)、この平均年①から算出した第21代、雄略天皇即位年は2019-(①15.33×105)=西暦409年となる。生年、没年、在位年に?が付いている最先代天皇は第26代、継体天皇(在位期間507年?~531年?)。平成が終わった2019年から継体天皇即位507年?まで1512年間、100代で割り算すると平均在任期間は15.12年(平均年②)、②から算出した第21代、雄略天皇即位年は2019-(②15.12×105)=西暦431年となる。雄略天皇御即位は①西暦409年~②西暦431年頃となる。今年2024年から引き算すると1593年~1615年前頃に即位した雄略天皇が即位前ここで猪狩りをしたことになる。雄略天皇御猪狩遺跡の看板説明の約1500年前と比べると93年~115年の差となる。この差から平均値から天皇即位の年代を求める計算式に大きな誤差は無いと思った。看板の1500年前は何かの文献を基に記載されたのだろう。城之越遺跡の記事で書いたが(神戸)長田神社のHPを要約すると「日本書紀、神功皇后摂政元年、西暦201年に神功皇后の三韓外征帰途中の神占による神託で長田神社が作られたと伝わる」と記載されている。上記在位平均年による計算式から割り出した14代、仲哀天皇の皇后、神功皇后が三韓征伐を行い帰国し即位したのは①西暦317年~②340年頃と計算できるが、長田神社HPの年代と116年~139年の差がある。雄略天皇御猪狩遺跡の看板との差93年~115年と大きく離れていないので、古墳時代以前の年代記録の無い時期について、文献を基にした私が知らない計算公式があるのだろう。矢刺神社葛木神社付近には大国主の神が石に御出現したと伝わる福石が置かれている。庭に良く置かれているズングリとした石とよく似ている。私はこれまで庭のズングリした石を権現石と書いて来たが、それを裏付けるものだと思った。葛木岳の西北西約100m地点に葛城修験道大本山、金剛山転法輪寺がある。転法輪寺境内には1585年、豊臣秀吉が増田長盛、片桐且元を従い参詣の際に掘った瓢箪型の「ひさご池」があり亀島には弁財天が祀られている。弁財天は池の中島や水害が起きやすい川の合流地点に祀られていることが多い。こちらの弁財天も山頂付近だが慣習通りに掘られた池の中島に祀られている。神々が宿る金剛山葛木岳付近に弁財天を祀ることで、大峯山、八経ヶ岳、弥山からの沢水を集めた天ノ川沿いの天河大弁財天社と同様、修験者達を見守っている。これまで記事にした金剛山を神体山として崇める寺社、或いは神佛の通り道を書き出して見た。(奈良)百済寺三重塔は羽曳野古墳群と三輪山に挟まれ、御蓋山と金剛山に挟まれ、耳成山と馬見丘陵に挟まれた神々が往来し交差する地にある。百済寺三重塔のように奈良盆地内からは神宿る金剛山、二上山、三輪山、奈良三山、大峯山系、古墳を直接遥拝することができる。(福井)永平寺法堂と(高野山)金剛三昧院多宝塔を結ぶ神佛の通り道は(奈良)佐紀石塚山古墳(成務天皇狭城盾列池後陵)-佐紀高塚古墳(称徳天皇高野陵)-宝来山古墳(垂仁天皇 菅原伏見東陵)の濠-慈光院東側の池-西岸寺-寺口千塚古墳群-二塚古墳-神域の金剛山頂上葛木岳付近-葛城神社本殿すぐ西-(高野山)普門院庭園の東側の山を通過する。天武天皇・持統天皇檜隈大内陵と高千穂神社本殿を結ぶ神佛の通り道は金剛山葛木神社-根来寺大塔付近を通過する。(京都)建仁寺大書院、小書院、方丈、法堂、勅使門などの伽藍は南南西の金剛山国見城址を遥拝する方向に建てられている。法堂中心と金剛山国見城址を結ぶ神佛の通り道は豊国神社-三十三間堂を通過する。建仁寺、両足院は建仁寺法堂の東側にあり、庫裡、毘沙門天堂は建仁寺伽藍と同じく南南西の金剛山国見城址遥拝方向に建てられている。(島根)出雲大社御本殿と(大阪)金剛山葛木岳を結んだ神の通り道は明石城坤櫓を通過する。(兵庫)日室ケ嶽を直接遥拝できる皇大神社(元伊勢内宮)の日室ケ嶽遥拝所と金剛山葛木神社本殿を結んだ神の通り道は(大阪府能勢)長杉寺方丈中心を通過する。(京都)大覚寺は東経135度40分39.87秒、霊峰、生駒山は東経135度40分44秒、金剛山葛木岳は東経135度40分23秒。大覚寺は二つの聖地と同じ時が過ごせる位置に建てられている。兵主大社東側の約350mの長い並木路は少し弯曲しているが、並木路の中心線を延長すると高野山金剛峰寺大門に到り、その神の通り道はウワナベ古墳-馬見古墳群-金剛山葛木岳を通過する。(京都下賀茂神社)糺の森の長い参道に沿って南に線を伸ばすと金剛山葛木岳と葛木神社に到る。その途中、武烈天皇傍丘磐坏丘北陵-當麻山口神社と春日若宮神社の間を通過する。この参道に沿って北に線を伸ばすと、下鴨神社橋殿と御手洗社との間をすり抜け、(若狭)天徳寺境内奥の瓜割の滝付近に到達する。瓜割の滝は朝廷の雨乞いを司る祈祷所だったと伝わっている。(淡路島)伊弉諾神宮と(奈良)高天彦神社を結ぶ神佛の通り道は(大阪府河内長野市)金剛寺の南大門のすぐ南-金剛山葛木岳を通過する。以上から葛木岳は古墳時代より神が宿る聖山として崇められ、古墳の位置決めポイントとなっていたことが読める。仏教公伝は552年もしくは538年だが、仏教公伝以降、仏教伽藍を真似て神社が建て始められたが、いくつかの神社が金剛山葛木岳を起点にした神の通り道の下に、或いは神社と神社を結ぶ線下に葛木岳があるように神社本殿の位置決めしている。寺社建屋や参道の向きが金剛山に向けられている。しかし、雄略天皇の時代より古いものが見当たらないので、金剛山を神格化したのは雄略天皇で、それ以前の祭祀場は雄略天皇が撤去したか、或いは葛木神社を建てる際に作り替えたのだろうと思った。(羽曳野)応神天皇陵拝所から陵墓を拝むことは金剛山中の千早城を拝むことに通じている。千早城四の丸跡から大手口までの石段は急こう配で、石と石のピッチも長く降りにくかったので、修験者の応援を得て幕府軍を寄せ付けなかった山城が実感できた。