小堀遠州が作ったと推定できる庭
築山にはエネルギーが湧き出てくるような、隆起するような力強さがある。多数の石が太陽エネルギーを貯え排出しているからよりそのように感じるのかも知れない。庭の築山山頂には江戸時代に設置したと思える稲荷さんの祠がある。庭は夢窓国師が作ったと伝えられているが、1570年(元亀元年)当寺は姉川の合戦で焼失し、井伊直孝(1590年~1659年)が当寺を昊天和尚(彦根龍潭寺創立者)に再建させるまで荒地となっていた。井伊直孝が彦根藩を継承したのは1615年、後述するが再建は1625年~1627年頃、少なく見積もっても庭は55年以上放置されていた。池の護岸石の石組みが江戸時代のメリハリが効いた組み方となっている。石が焼けていないので、庭石は江戸初期に置かれたものだ。後述する本堂の遥拝先などから見ても、当寺の敷地内の新たな場所に本堂及び庭を作った可能性がある。再建場所が同じだったとしても建屋の向きを変えた可能性もある。当寺すぐ近くの近江小室藩に小堀遠州が移封されたのは1619年(元和5年)、当寺の庭は小堀遠州作、浜松龍潭寺の池泉鑑賞式庭園に似ている。彦根龍潭寺の庭も小堀遠州が昊天和尚に協力して作った。当寺の庭も小堀遠州(1579年~1647年)が作った可能性が高い。青岸寺庭園の雰囲気は当庭園に少し似ている。青岸寺が再建されたのは1678年(延宝6年)、彦根藩士の香取氏が当庭園を参考にして青岸寺庭園を作った可能性もある。当寺近くの青岸寺、彦根龍潭寺、近江孤篷庵は永平寺に礼拝する庭を持っているので、当寺の庭も永平寺の礼拝庭かと考え、永平寺と当寺とを結んだ線をそのまま南南西方向に伸ばすと熊野速玉大社に到達した。青岸寺、彦根龍潭寺、近江孤篷庵は永平寺と結んだ線をそのまま前に伸ばしても聖地に至らないので異なる。当寺の庭は永平寺の礼拝庭ではない。庭の中心石(亀島の頭の先、お釈迦様と見なしている石)は当寺が永平寺と熊野速玉大社を結んだ線上にあることを示し、熊野速玉大社を遥拝する目印石の役目も持たされているのかも知れない。当寺の松並木の参道に沿って線を南に伸ばしたら多賀大社に到達した。本堂、庫裏、山門、稲荷さん祠などの建屋も多賀大社を遥拝する方向に建っている。よって本堂内から建屋に沿って見る庭は多賀大社遥拝庭園となる。当寺を再建した井伊直孝は朝鮮通信使の応接において幕閣筆頭としての役割を担っていた。そこで(対馬)海神神社を起点として当寺に向け線を引き、そのまま東に伸ばすと、伊吹山山頂すぐ近くの弥勒堂を通過し、(上野)寛永寺本坊跡(現、東京国立博物館)に到達した。つまり海神神社(当時の祭神は八幡神)と寛永寺本坊とを結ぶ直線が伊吹山山頂近くの弥勒堂、当寺の本堂を貫いている。偶然この位置関係になることはほとんどない。海神神社と霊峰伊吹山山頂近くの修行者が目指した弥勒堂を結んだ線の延長線上に上野寛永寺の本坊を建立したところ、聖なる線上に当寺があることに天海大僧正(1536年~1643年)が気付き、井伊直孝に当寺を再建させたと推測がつく。寛永寺の本坊が建立されたのは1625年(寛永2年)、寛永寺の法華堂、常行堂、多宝塔、輪蔵、東照宮など建立されたのは1627年(寛永4年)なので、当寺は1625年~1627年頃に再建されたと推測した。次に、当寺の本堂、庫裏、山門、稲荷さん祠など建屋の東の向き先をチェックすると武田神社(躑躅ヶ崎館の跡地(武田氏館跡)武田信玄を祭神とする神社)に向けて建てられていた。井伊直孝が率いる家臣団は甲斐武田氏の遺臣なので、家臣掌握のために建屋を武田神社に向けたのだろう。よって稲荷さん祠に礼拝することは武田神社を拝むことに通じている。池は琵琶湖を模したもので、池の形から見て彦根城天守閣から西方向を見た琵琶湖の姿となっている。庭の中心石は天守閣の西西北方向、琵琶湖対岸の百里ヶ岳(標高931.3m)を模したものだと思う。百里ヶ岳の根来坂には金ヶ崎の戦いで朝倉義景に敗れ、退却する織田軍の後備を守り京都へ帰陣した羽柴秀吉・徳川家康の伝説がある。中心石に寄り添うように別の石を置くことで根来坂を表現したのではないだろうか。百里ヶ岳の伝説は庭の中心石に込める意味としてふさわしい。中心石の奥のいずれかの石は丹後国一之宮籠神社、いずれかの石は出雲大社を表現し、祠手前の築山山頂緑色の石は海神神社を表現していると推測した。当寺が位置する半島は庭の中の池の右側、亀島部分になる。池の中に画かれた当寺は亀島の背中にある。池の左側対岸のいずれかの石は比叡山を模し、その背後の角型の石は清和天皇陵のある愛宕山を表現したものだと推測した。当寺は青岸寺、彦根龍潭寺、近江孤篷庵のように永平寺の真正面方向に位置しないので、聖なる気は海神神社、霊峰伊吹山、上野寛永寺から送られて来たものだと推定した。その聖なる気を庭石が反射し本堂内に取り込んでいる。本堂から庭を拝することは庭石を介して海神神社、霊峰伊吹山(山頂近くの弥勒堂)、上野寛永寺に礼拝することに通じている。この庭には以上の通り多数の遥拝先を持っている。小堀遠州の庭の特徴と一致する。
14㎞東には霊峰伊吹山の山頂が、最短1.7㎞南には琵琶湖がある。琵琶湖がすぐ傍にあるので空が広い。近年まですぐ傍に琵琶湖があった。伊吹山に歩いて行ける距離で、本堂の縁側からも伊吹山が見えるので伊吹山を身近に感じる。当寺は自給自足ができる10反(1ヘクタール)の水田と畑を所有されている。当寺の水田周囲も水田となっているので、広々とした美しい水田の中央にマツの並木道があり、庭に樹齢700~800年のモッコク、クスノキの大木が育つため寺全体がとても美しい。爽やかな優しい風が通るマツに囲まれた山門前に立つと彦根藩及び近江小室藩内はこのような風景だったのではと想像してしまう。まるで江戸時代に迷い込んだような雰囲気がある。伊吹山の霊気を取り込んだ神聖な池から飛び出した一対の夫婦龍が天に登る姿を二本のマツで表現している。真っ直ぐなマツは雄の龍、体をくねらせたマツは雌の龍。雌の龍は水を掃っている。上野寛永寺-伊吹山-当寺-海神神社の一直線の聖なる線から考えて、龍は徳川幕府が上野寛永寺から放ったもので、伊吹山を乗り越え、当寺の池で休憩し、海神神社へ向かい飛び立つ姿。或いは海神神社(対馬)で仕事を終えた龍が上野寛永寺に戻る途中、当寺の池で休憩した後、飛び立つ姿と解釈できる。彦根城は徳川幕府最大の兵粮米を備蓄する軍事拠点であった。よってこの庭は彦根藩の立場を表現したと解釈できる。龍が示すのは徳川幕府の勢力、その勢力に良好な休息の場を提供する彦根藩。以上のことを考えると、大池寺と似たような作庭の意図を感じるので、江戸幕府が小堀遠州に作庭させたものだと結論付けできる。近年、現代人受けする庭とするために白砂が敷かれたが、白砂は天の気、天の言葉を反射する役割を持っている。当寺は海神神社、霊峰伊吹山、上野寛永寺から送られて来た聖なる気を本堂内に取り込む構造となっているが、白砂は他の気までも本堂に受け入れてしまうことになる。白砂は庭の主旨と異なる方向に向かってしまうので、本来の苔面に戻した方が良いと思う。そして近年、築山上に置いた物を撤去し聖なる庭に戻した方が良いと思う。この寺周囲の視界内にある現代的なものを常緑樹の大刈込にて目隠しし、松の並木道を増やせば、水田風景が広がる美しい地にある寺なので完全に江戸時代の風景に戻れる。庭の主旨からして江戸時代の風景を取り戻す方が良いと思う。