旧竹林院庭園

上面平面の石を円陣状に並べ置いた神の歓談石組が庭にいくつかあるので、神が遊ぶ庭だと一目で判る。それもそのはずで当園は比叡山延暦寺を守る日吉大社境内入口赤鳥居の北側にあり、三方が日吉大社境内となっている。庭上空に神の通り道があるせいか、母屋の二階から見た庭は軽快な美しさがある。庭を見下ろすと、瀧の方に伸びる飛び石が瀧壺の近くで途切れ行き止まり、周囲に多くのアセビが植えられているので、庭が山中にあり、瀧に近づけないことを暗示している。瀧壺から流れ出た水は浅瀬の沢から底の浅い池に注がれ庭を通り抜けて行く。沢や池の上を風が通っている。スマートな斜面があり、神が座る上面が平面の石がたくさん置かれている。偽りのない心でもって庭石に座する神々の姿を想像することを迫ってくる。庭は八王子山(標高381m)山裾にあり、庭東端から西北方向約600mにある八王子山山頂付近の奥宮(三宮神社、牛尾神社、金大巌(日吉大社の始まりとなった盤座)が見える。正に神々の住まいに囲まれ、神々の足元にある。久能山東照宮と日吉大社西本宮本殿を結んだ線、熱田神宮本殿と日吉大社西本宮楼門を結んだ線、日光東照宮御本殿と日吉大社早尾神社を結んだ線は共に母屋を通過し母屋で交叉している。更に西には比叡山延暦寺の多数の堂宇が点在する。東に住む多くの神佛が日吉大社の各社殿および延暦寺堂宇と往来する際に当園の上空を通過している。比叡山を飛び越えた(京都)白峯神宮本殿と (滋賀)多賀大社本殿を結んだ線は糺の森中間付近、比叡山の建立院、(千日回峰行の祖)相応和尚墓、五大堂のある南善坊、早尾神社、そして当園の上空を通過した。以上のように多数の神佛が通過する庭なので、それぞれの庭石は舞い降りて来た個々の神々の指定席となっているようにさえ感じる。母屋は西北西には日吉大社(白山宮本殿、白山姫本殿及び拝殿など)を遥拝し、反対方向の東南東には浜松城天守閣を遥拝している。南南西には(宇治)興聖寺を、反対方向の北北東には西教寺総門付近の境内を遥拝している。比叡山延暦寺焼き討ち後の1573年~1592年(天正年間)茶室と四阿(あずまや)が建てられ、1592年(天正20年)延暦寺の里坊として竹林院が建立された。現在の茶室は大正時代に建て替えられたもの。明治時代に竹林院は資産家の所有となり、計4回所有者が替わり大津市の所有となった。ガイドが「小堀遠州の庭に近年手が加えられたので、誰が築庭したと言うものではなくなっている。」と説明された。庭木にモッコク、アカマツ、クロマツ、カエデ、スギ、アセビなど江戸庭園樹木が目立つ、軽快な沢と池、スマートな築山、石の上に置かれた石灯籠は近代の改築によるものだろう。建屋一階から沢と池方面を見ると、濃い緑色の苔面、明るい緑色の芝生面があり、築山のアカマツ、クロマツの明るい葉がある。緑の強弱がリズミカルで楽しくなる。その風景の中に茶室の藁葺屋根が見える。庭東側から山頂付近にある天空を反射する金大巌が見えるので山は天を反射する役割をしている。よって庭は易経「25天雷无妄(てんらいむぼう)」を表現しているように見える。天空も震雷も人力の遠く及ばないもの、神力も人力の遠く及ばないもの、天、神の動きに対し、うそ偽りない心でその動きを受け入れるべきこと伝えようとしている。