織田信長の躍進(16)
(京都)細川忠興建立の大徳寺高桐院で千利休を偲ぶ石灯籠と茶室を拝見し、豊臣秀吉建立の大徳寺総見院で織田信長の木造、供養塔を拝んだ翌日、車を転がしていた私は、引き寄せられるように旧秀隣寺庭園にたどり着いた。魅力的で、レベルの高い蓬莱池泉回遊式庭園に圧倒された。戦国時代の血の匂いを漂わせた庭は、山深い地で可憐に咲く蘭の花のようだった。庭園内は自由に歩き回れ、約500年前に架けられたと思える貴重な楠の化石の石橋が渡れた。庭解説は「朽木に逃れた細川高国が足利義晴を慰めるため鶴の姿の池を掘って作った池泉回遊式庭園、鼓の滝は小堀遠州が作ったもの」。見れば、どちらかと言えば細川高国の重厚な庭ではなく小堀遠州の軽快な庭、庭には物語が画かれていた。庭を訪れた千利休が「ヤブツバキは一期一会の花」と言ったと伝わる。千利休は小さな庭石を好んだので、ヤブツバキを植えただけだろう。築山に加藤清正が朝鮮から持ち帰った高麗芝が植えられていた。金ヶ崎の戦いで撤退した信長、家康、光秀、秀吉は朽木経由で京都に戻った。歴史に記載はないが金ヶ崎の戦い撤退時、織田信長はこの庭に立ち寄り、信長自身のような振る舞いをしている鶴羽石に心ひかれたことだろう。本能寺の変が起きた時、命がけで逃避中だった信長・信忠らは庭を前に休息したと推測したが、その時、鶴羽石を信長が再び凝視したため、信長の魂が込められたように感じた。山から引かれた水が瀧口から流れ落ち、川池となって河口に向かって流れている。川には二つの中之島(亀島、鶴島)があり、共に船を模している。信長の魂が宿っているかのような(鶴島)鶴羽石が信長、鶴羽石の反対面の石が信忠、その他護岸石などは長利(信長弟)、勝長(信忠弟)、森成利(蘭丸)、森坊丸、森力丸、坂井越中守で、鶴島全体で一行が小浜港から乗り込んだ大型船を表現し、若狭湾から日本海に漕ぎ出す姿となっている。大型船を見送り信忠の石と対面となっている対岸の石が徳川家康。大木のスギの下、ヤブツバキ傍の庭中心石が本能寺の変を画策した明智光秀。上流の亀島に置かれた石が豊臣秀吉で、私欲が強すぎる重い石のせいで亀島は今にも座礁しそうな船に見せている。信長一行の船(鶴島)が時代に流されるように作られているのに対し、秀吉一行の船(亀島)は今にも座礁しそうに作られている。池中央部、鶴島と亀島との間に化石の石橋を掛けたことで、幅広い川池を曲水のように優雅に見せている。池護岸石、鶴島、亀島、築山の石組みと形は借景の山々を大きく見せるように配されているので、小さな庭だが、借景の大きな風景を庭に引きずり込み、迫力あるものとなっている。庭の両側に大木のスギが生い茂っているので庭に集中できる。まるで茶室にいるように季節、時間の変化と共に借景山の色、空の色、石に注がれる光の変化で、庭表情が大胆に変化する。太陽エネルギーを取り込む庭石はまるで息づき生きているようだ。夕方、陽が落ち始める時間になると、庭の中心石だけに西陽が当たり、中心石はひときわ黄金色に輝き庭を支配する。回遊式なので、鑑賞位置を替えれば表情が変わる。尖った石と借景の山頂とが緊張感を生み出している。芝面の築山を借景山の傾斜に合わせ、或いは他の山の傾斜と逆方向に南へ低くなるような傾斜でもあり、借景山と築山とが重なるように作られているので、庭と借景山が一体となっている。サツキは借景を生かすため地面に貼りついたように低く刈り込まれている。石が鑑賞者に迫ってくるよう前傾となっているので、借景山も迫ってくるように感じる。それらの相乗効果で鶴羽石が大きく迫ってくる。写真ではこの鶴羽石と庭の美しさを撮れない。千利休が「ヤブツバキは一期一会の花」と言ったのは、鶴羽石が信長を表現していたので、信長・信忠らが再び日本の地を踏むことは叶わず、この庭を見ることもできないことについて述べたのかも知れない。無事に目的地についた信長兄弟、信忠兄弟は愛新覚羅氏一族に、森蘭丸3兄弟、坂井越中守は満州民族の貴族となり、大活躍して清朝を樹立し、子孫は現在につながっていると思う。満州民族に日本人に高頻度に見られるDNAが15%前後あるのはそのためではないだろうか。日本民族と同じく教育熱心で学力は漢民族より一段と高かった。明智光秀、千利休、天海(慈眼大師)は徳川幕府への道のりを作り、江戸幕府を完成させた時代の司会者だが、天海が小堀遠州に庭を現在の姿に修正させたのではないだろうか。深読みすぎるかも知れないが清朝皇帝、満州貴族、現代日本人へ向け、嘘のない歴史を庭に書き込んでおいたのかも知れない。この庭から本能寺の変が演劇で、信長・信忠一行が大船に乗り日本を離れたことが読み取れた。